カンボジアの歴史探訪 2

つかいにくいのでFC2にて活動しますわ。

2/8~9

1日ずつずれてきたので、まとめて2日分。

ラタナキリを離れる前に歩き方や昔訪れた人がラタナキリ市中を一望できると書いている街の日はずれの小高い山の上のお寺であるvat Eisan Rattanaram のエイセイパッタマッ(涅槃仏)に行ってみたが木々が生い茂り、また正直そこまで高くもない。途中の火葬場の方が見えるかもしれないが景色を楽しむ場ではないので遠慮して、山の頂上目指す。といっても小集落がなだらかな傾斜に沿って並んでいてダラダラ登ればてっぺんの鉄塔に着く。
がここもそこまで眺めがいいわけでない。
寺に降りて講堂の柱に彫刻を着色してる方に見せてもらい本堂は鍵がかかっていて参拝できずこれで今回のラタナキリとはお別れである。

ストゥントレンに向かう途中クラチェとモンドルキリとの境あたりで、以前聞いたプノムクーについて聞いたが誰も知らず、カンピにあるやろなどと言われ(Prasat Neang Pou)あんなにゴミまみれだったのになんたる知名度と驚く。

ストゥントレンでお買い物をしたあと、また国境の村Kompong Srarauでメコンの滝の上しかいないトレイクロムやカンボジアでも見られるがラオス風スープぽいがスープじゃないピーピアなどをビアラオと食す。
いつもながら長閑で良いところである。

カンボジア人のガイド氏はサウザンドアイランズ(シーパンドン)とも言われる大小の島々の全てがラオス領であることにがっかりしている。

ここからChoam Ksanまで2時間弱で道もよくうとうとしてたがなぜかはっと目が覚めて遺跡が呼んでる気がした。(あくまで個人の感想です)
グーグルマップを見ると昨年王道沿いに探して見つけきれなかったPrasat Trapeang Chhuk
はこの辺ではなかろうか?
とりあえず道端で聞くと遺跡はある。学校へ行けという。学校は無人だったがその北をみると池が確かにある。道もあるので歩く。途中なぜかバイクにまたがってニッコニコの軍人さんgして聞いたら教えてくれる。

今回は迷わず辿り着けて宿題が一つ片付いた。

2/9
昨年世話になったトラクターの若旦那は森に泊まり込みで、代わりに向かいの農家のおじさんが小学生か中学生の兄弟連れて出発することになった、
子供二人は輪ゴムの束のパチンコ、スリングショットを持っている。大丈夫かと思ってたらしばらくして木の上に鳥がいて石ころの弾を飛ばすが、弾速も遅く弾道も不規則でこりゃ当たらんなと生暖かい気分になる。

意味ありげな小さい方形の池がありその西を帰りに調べてみようと思いつつほどなく
Prasat KrahamThom 大きいと村人は言うが小さい方もあるのか聞きそびれたーに着く。

さてついたは良いがガキ、もといお子様がチョロチョロするのはともかく主祠堂のてっぺんに住んでる鳩っぽい鳥に中で石を投げつける。

挙句は唖然としたことに破損してないレンガを中から両脇エッホエッホと言わんばかりに抱えて盗んでいる。一瞬タイムボカンの盗賊一味ぽいなと変な笑いが込み上げるが

さすがに、ちょっと待てやゴルァ!
と叫びましたよええ。

ガイド氏にも言い唖然として注意してくれ、
見てたらさっきと同じように両脇に抱えて祠堂に戻って行く。
ちなみのここの西側にはちゃんと木に赤い看板がかかっており

文化財保存法によりこの遺跡を破損盗んだ者は懲役6ヶ月以上5年以下の懲役が課せられる。
その下にはなぜか
懲役2年以上8年以下とも書いてある。

お前らこんなところに来ないで学校いけよそしてこういうことも習っとけと思う。
7年ぶりに伊武雅刀氏が頭の中で歌い出す。

がこの後は看板にも気づいたらしく大人しくなった。

この遺跡は文化局が区域に杭を打って保護区を決めて伐採や開墾を制限している。
ごくわずかでも森が戻って、日本の鎮守の森のようになれば良いのだが。

で帰りはさっきの池がどこかわからずじまいだった。

がおじさんにはわたくしが池マニアであると認識された模様。

Prasat Trapeang Anuon
いつも貴重な情報をご教示くださるkechaps2さんから位置を教えていただいたので今回はバッチリである。

大小の池の間にあるようだ。
が、おじさんは池のことは知っててこの策に大小の池があると知っててわざわざ知らせてくれるが遺跡のことは知らない。
農民にとってはそんなもんだろうが(池=水で生活に直結)、ラタナキリにせよクラチェにせよ色々あったが少数民族の方がかつての遺跡を大事にしてる感がある。

ともかく池の間に着いたら乾季で焼いた後でもあり遺跡が見えた。

改めて偉大なるご先達に感謝します。

主祠堂の入り口にノンシュガーのど飴が一つ落ちてまして、こんなところで日本語に出くわすほどの感動はありません。きれいそうなのであ
わよくば食おうとしたらカンボジアの小さい黒アリにはプラなど関係なく入り込んでびっしりでしかも手の甲を噛みまくられました。赤蟻以外にも難敵がいたとは。
帰りは農道に戻らず、この北にまた大きい池があるから寄ってくか?とお勧めされ
行ってみたら去年彷徨ってたどり着いた池だった。
やはり池の周りに、きちんとしたところならラテライトが並んでたりするが、自然石が並べられてるように見える。


帰りにハッと気づいて道端東側に石材が落ちてるのを10年ぶりに気づく。
ここはPrasat Trapeang Svayというが位置がも少し西のような。
帰国して検証することにした。

いつもの食堂に戻り昼飯を食ってたら主人のおっさんが語り出して内戦の話しになった。9歳で民主カンプチア、つまりポルポト軍の兵となりベトナム侵攻でコンポントムにSandan クラチェの西でメコン右岸、山奥から北上して国境沿いを逃げてソンサン派の兵士となったとのこと。
結構歴史にも詳しくもう少し話きいてみtたかったがそろそろ出発である。

最後に9ー10年前遺跡案内してくれたおじいさんに挨拶に行ったら娘であると言うおねえさんがいて、
おじいさん高血圧だが元気にしてて今日はタベンミエンチェイに出かけてるとのこと。
何よりだ。
文化局じゃなくて観光局だったらしい。退職して年金暮らししてるとのこと。
日本人の、ああ覚えてますとおねえさんもわかったようだ。
よろしくお伝えくださいと伝言する。
こう言うやりとりのカンボジア人の
礼容の美しさは感服させられる。

Prasat Dap
なんか今週気づいたが出発前にはなかった道やら農園が遺跡の近くまで伸びてるではないか。
ここも長年の宿願の地で向かう。途中のプランテーションまで車道、その後も凹凸はあるが車で遺跡まで行ける、が古い池があるのでそこから歩く。
が、グーグルマップで見えるような森はもうなく無惨に開墾されていた。

遺跡自体はとんでもない大伽藍で東側の池と参道までCISARKさんのplanのさらに池側におびただしい瓦が散乱していて、ここに木造の建造物がまずあったのは間違いない。

フランスにしろ石造物以外も見ないとわからないことも多いのでは?

北の池(環濠ではない)の東岸で陶片も確認。
寺院敷地外に、いわゆる更衣所の対面である。
往時の、参詣前に横切って行き来する貴人のお付きや貴人、姫や水を汲む女官
ふと頭の中をphantasicな光景がよぎる。
大伽藍は目の前なのになぜか佇んでその妄想を思い続けてしまう。