Prasat Yak Nang nau Ou Ya Dav ,Ratanakiri その1
ラタナキリ州はカンボジアの北東、ベトナムとラオスに国境を接し、起伏の多い山岳地帯で古くからKuoy Jarai Tampuon Kacho Pnong族などの少数民族が、そしてタイラオ族が、たぶん南下ないしは西進して定住していると考えられている。
歴史上は空白の地で、英語版ウィキなぞは、アンコール時代にいたるまで中央集権が届かなかった地などと書かれている。
しかし、今回プレアンコール期からアンコール期までの遺跡が州内に点在していることを把握するに至り、空白地ではなく、既知の古代都市と考えられるPreah Putといった拠点もあり、また東に隣接していたベトナムのチャンパないしは謎の林邑との密接な交流があった可能性も考慮に入れるべきと思われる。
もちろん、モンドルキリ州にまたがる、Tonle Srepok スレポック川およびその支流沿いに目を向けると、川の近くに遺跡が点在していて、今回のPrasat Yak Nangの存在によって、河川交通ないしは流通がそれなりにあった、さらにSesan川と合流してSesan川流域に点在しているプレアンコール期の寺院を結びつけながら、ThalaBorivatでメコン川に合流しプレアンコール期にクメール民族勢力と交流があった、ないしはその政治、文化的影響力下にあったと考えられる証左になるであろう。
グーグルマップではTak Nang となっているが、Yak Nangの間違いであることは現地で確認済みである。
グーグルマップにも投稿しておいたが、コンポントムをいまだにコンポンチャムと混同しているような
のでどうにもならないだろうと、モンスタークレーマーのように数回修正要請して通らないわたくしはイライラしております。
グーグルマップにも投稿しておいたが、コンポントムをいまだにコンポンチャムと混同しているような
のでどうにもならないだろうと、モンスタークレーマーのように数回修正要請して通らないわたくしはイライラしております。
まあいいや。
これを見ると明らかに復路のほうが近いが、往路のほうがまだ道はworseで復路はworst
と言えた。復路は渡渉しないといけないところがあるのが難点。
と言えた。復路は渡渉しないといけないところがあるのが難点。
バイクやチャリならなんとかなるだろう。どのくらい時間がかかるかわからないが。
復路の赤い軌跡の起点になっているところ、そこに
今は乾いている池の南東端に文化局の小屋が建っており中に遺跡の看板が立てられることなく置いてあった。
まあ帰りに見たんですけどね。
Prasat Yak Naungと書いてある。
グーグルマップにも看板アップして名前直せアピールしてるんですがたぶんダメでしょね。
ここで文化局のパッさんと、行きがけにスカウトした道案内の村のあんちゃん、運転手氏は留守番で残り、地元のジャライ族の管理人のあんちゃんとその兄貴がバイクでわたくしとガイド氏を乗せて、川のほとりまで運んでくれる。
この川の風景を見るだけでももう来た甲斐があったかもしれない。
Srepok川の支流のPrek Drangとグーグルマップでは出ているが、
クメール語ではないのでよくわからない。←Prekは小川用水路の意味でしたね訂正します。
この川の風景を見るだけでももう来た甲斐があったかもしれない。
Srepok川の支流のPrek Drangとグーグルマップでは出ているが、
クメール語ではないのでよくわからない。←Prekは小川用水路の意味でしたね訂正します。
管理人のあんちゃんが櫓をこぎ水音と川岸の水牛のカウベルの軽やかな鈴の音とななんとも心地よい。
これは太古より変わらぬ情景だろうが、舳先のもう一人のあんちゃんがスマホを見てにやけているのが
何とも21世紀である。写真撮ってよいか聞くとおkというので撮ったが、さすがに公開はしない。
これは太古より変わらぬ情景だろうが、舳先のもう一人のあんちゃんがスマホを見てにやけているのが
何とも21世紀である。写真撮ってよいか聞くとおkというので撮ったが、さすがに公開はしない。
崖に接岸してよじ登り川の左岸を南西に下って道を行けば南側に遺跡は見える。
東西に前室後室を持ち通り抜けできる構造で、ひょっとしたらこの建造物自体が寺院の一部の
前衛でしかないのか?
(追記しますと崩壊した西側壁を見誤っております)
前衛でしかないのか?
(追記しますと崩壊した西側壁を見誤っております)
しかし遺跡はここしかなく、ほかにはないと現地のみなさん。
ということは、やはりここが本祠堂ということでまちがいないことは
ということは、やはりここが本祠堂ということでまちがいないことは
このように南北の壁に、小さいながらも龕があって神像を納めていたであろうことからも確認できる。
ちょっといろいろ調べながら書かないといけないでしょうこれは。
このくらいでいったん切りますが、
この遺跡は聞いたらこのあたりに住むジャライ族、水や焼き畑によって頻繁に森を転々としていくので定住するわけじゃないらしいがみなさんには古くから知られていたとのことである。
が、カンボジアの文化省に知られたのは2010年、今からまだ8年弱前の話でしかないとのこと。
この遺跡は聞いたらこのあたりに住むジャライ族、水や焼き畑によって頻繁に森を転々としていくので定住するわけじゃないらしいがみなさんには古くから知られていたとのことである。
が、カンボジアの文化省に知られたのは2010年、今からまだ8年弱前の話でしかないとのこと。
どんどん森が伐採されて拓けるにつれてこういう遺跡があらわになり知られていくことになる可能性はまだあるのかもしれない。
それが良いことか悪いことかはおいといて。
しかし、8年前に知られてそれからそれなりにカンボジア人、西欧人がやってくるのはどうしてなのか、
不思議に思って聞いたら、ラタナキリ州文化局のパッさんいわくフェイスブックに登録してるからどんどんその情報見て来るらしい。
しかし、8年前に知られてそれからそれなりにカンボジア人、西欧人がやってくるのはどうしてなのか、
不思議に思って聞いたら、ラタナキリ州文化局のパッさんいわくフェイスブックに登録してるからどんどんその情報見て来るらしい。
わたくしのほうが時代の流れに取り残されていますねこれw。