カンボジアの歴史探訪 2

つかいにくいのでFC2にて活動しますわ。

2018年雨季の始まりの旅 3

グーグルマップで見るとカンボジアの地形の変化の激しさに愕然となりますね。
2月に行ったラタナキリのPreah Putの南がごっそりプランテーションになっててビビりました。
また行きやすくはなったんでしょうけど。。

5/3

Kompong Thom
Prasat Sambor

①Prasat CISARK3824
Sandan
Sandanと言えば1979年1月プノンペンを陥落させられ敗走するポルポト派があるいはここを経て北上しあるいはKratieからメコン川沿いにStoung Trengを経てPreah Vihear,
タイ国境へと逃げ落ちた中継点。
Choam Ksantの食堂のおじさんもその一員だったとのことでまた話聞きに行きたいもんである。

Prasat Veal Kuk Khlong Prasat Kuk Veal IK160 CISARK196 碑文K147

碑文かなと思ったが大体目の錯覚だろうと思ったら碑文だった。がどうせ読めない状態である。

Sandanの食堂で飯食ってたら警官が寄ったのもあまり外国人が来ないからかもしれない。が②の遺跡にはたまに西欧人がやってくるらしい。よく知ってるなあしかし。検索してもBEFEOとかユネスコくらいしかでてこないんだが。
Srae Prasatへの道は何とか来年以降目途が立ちそうである。がまだまだクラチェ州境にはTrapeang Preusもあるしなかなか。。

Phnom Barieng IK157 CISARK193 碑文は未登録

日誌にも書いたがびっくりでしたわ。東西約1㎞山自体東西に長いのを利用して一直線にレンガ塔が並んでいたと思うとまあ、なんという聖地だったのか。

その後 再びSambor Prei Kukの森をゆっくりと抜け、途中ガイド氏がPrasat Sandanなら人がいないから入れるかもと言うので行こうとしたらちゃんとチケットチェック要員が配備されていて遠くから眺めて去るのみである。

とはいえ車中からでもN19やAsram Maha RuseiやN18寺院や反対側のPrasat Samborをちらちらみて、スマホで撮影している日本人グループを見てやっぱりちゃんとした遺跡()をじっくり見て回るのが人として正しいのではないかと不安になるが、
まあまたいずれ再訪するだろうと思う。とはいえレンガ塔の集中するこっちより都城であるイシャーナプラをいろいろ見て回りたいもんですね。あ、こっちの衛星写真蓮コラダメな人はきついかもしれませんが、これは容赦なく爆弾落としまくったアメリカに文句を言うべきでしょうね。。

Vat Mohar IK167 CISARK204 碑文K156とKa99 SPKに近いがBaphuon様式の女神像出ている。

この後Prasat Ballangに同名の遺跡を探しに行って空振りしたのは日誌にも書いたが、
あろうことかここはPrasat Ballang1で遺跡がある集落はPrasat Ballang2だったらしい。
確かにこっちを探してみると遺跡確定的な地形が数か所見つけられる。
紛らわしいったらありゃしないがカンボジアではこれもよくあるパターンである。

5/4
Banteay MeanChey
Phum Snay再訪
TepKaosa Snay グーグルマップで見つけて行ってみたが、昔案内してもらったと思しきおじいさんともう一人もおじいさんが制服着て管理していた。
プノンペン国立博物館で買った薄い英語のたぶんハワイ大かどっかの人が書いた出土品の本を見せたが、こんなものはここにはないと残念そうで、全部タイ人が持って行ってしまったなどという。
この博物館は日本の経団連が援助したようだがもう少し金出せなかったのかというくらいの小さな小屋である。
それにしても本にあったラピスラズリという耳飾り、どっから紀元前に持ってきたのであろうか。
というかどう見てもソーダガラスであろう。

この村は個人的にはあちこち見どころあるが今回はここのみ。それにしても今は出土物があっても大概文化局か、地方に続々と誕生している博物館に住民も届けたりしていて結構ニュースも多い。
帰国後シソホンにまで博物館ができていた(ついでにコンポンチャムのMemotにも)のを知り、いずれも近くを通ったのにスルーしてもったいないことをした。

Phnom KamborCISARK7047で意外とIKなかった。
3基であったろうレンガ塔の遺跡で北祠堂の上にお堂が建ってしまっている。
西部特有の紅砂岩がああやっぱりよいものです。
しかしたったこれだけの山登るのにはきそうになるのはもう手遅れかもしれない。

Vat Monkul Anlong Sa IK839.04 CISARK2413 
通り道と言えば通り道なので②と一緒に見れる。が、石材が残る程度。
アンコールワット様式の青銅のナーガ仏陀が出土している。
寺自体も建て替えられていないので古い感じを残しているがどうせ新しくするのであろう。
当ブログは全年齢版なので壁画が見せられないのが残念であるw
10数年前から10年前にかけてちょくちょく来てたKralanhも久々でNoum Knyau(ショウガの形をした揚げ菓子)など駄菓子がやたら売ってるのはやはり名物らしくしかもショウガも名産でみんなお土産に買うらしい。2こで500リエルなので8つばかし買ってみなで食べるが砂糖がかかっているがショウガ風味ではなく見た目だけだった。ショウガ味だったらもっとうまいかもしれないが日本でそういう菓子があるからそっちを食べればよい気もする。ただ昼食は千切りショウガと豚の炒め物食べてなかなかうまかった。

Phnom Kambot IK667 CISARK541

当ブログの最初の底本である、エイモニエのle CambodgeⅡに載ってて(Trombatという名でそれが100年でKambotになるとは…)探して某波多野氏の本にもちらりと触れられてて場所がわからず探しまくってたがやっとグーグルマップで登録してくれたおかげでたどり着く。
が砂岩の岩場で結構歩きづらい。

遺跡の東前衛の広場、岩場との境目に瓦が集積。木造建造物があったのであろう。
西は内戦時代の見張り台か基地のこれも遺跡と言えば遺跡がある。水槽やコンクリの床。

それよりも遺跡の南東の谷の南東斜面のほんの一区画だけに、土器からアンコールの黒釉陶器、大型の壺や白釉陶器の陶片が夥しく集積していて度肝を抜かれる。山の上の涸れ谷で岩がごろごろしているが、小さな岩山でも太古は森がもっとあって、水が絶えず流れていて、この寺領の生活者をうるおしていたのであろうか・・・。

Prasat unidentified
またグーグルマップでめぼし付けて行ったら丘の上に台座のみあった。遺跡というより丘でレンガやラテライト列などは全く気配もなし。
Lobeuk Run IK665 CISARK 539 再訪。
リンテルが一回転して環濠のほう向いてさかさまになっていた。なんてことするのか。
と思ったが人目を避けてるのかもしれない。無事で何より。この寺より南東に200m弱いけばまたあやしい場所があるが雨季でやめといた。と言ってまたくることができるのか?

Kok Prasat ここも適当にグーグルマップで見つけて行ってみたが、ちゃんとIK663であった。CISARK537 寺の坊さんたちが遺跡を破壊しないことを祈る。。
それよりもその真下にもう一か所ありそうなのに完全に見落としていたのが無念である。
寺院ではなく生活していたところかもしれないがどう見てもあやしい。また行かざるを得ないのが二つ揃って、しかしいつになるのか。


Prasat unidentified
ちょっとCISARKさんにはないので不明。このあたりの遺跡はきっちりIKに記録されているのが多いが。これも不明。西の環濠と参道を持つ丘にはラテライトが2個ほど転がっていたがあとは遺跡の痕跡はなし。
ただし中央にアンコール期の陶片。

東の大きな池Trapeangの土手が広く、明らかに周囲を集落が形成されていたとわかる。その南東に日本人が建てた小学校があったが無人だった。今は全国で午前中しか授業していないのだろうが。しかしボランティアとかではなく、遺跡見物でここに来た日本人てのも皆無だろうなと思いつつ。

これで今回の遺跡は終わりだが、今更シェムリアプのSpean Phsar Chahの両側にアンコール期のシンハが置いてあるのに気が付く始末。まあこの界隈は18年前以来ご無沙汰で、ここ5,6年しかうろついてないので気が付かなかったのもしょうがない。