高野秀行著 「アヘン王国潜入記」
もう10年以上前に文庫本で読んだが、最近電子書籍化されてて写真がカラーになってるので再購入。
あろうことかすっかり忘れていたことに、一番大事なことは、
著者の高野氏が、日本から来たというのを、ワ族の誰もが理解できずに中国のどこから来たのか、と
問い詰めた挙句、中国とは海で隔てられた島(島という概念も彼ら山岳民族なのでか、ない模様)と説明するのだが、結局、
著者の高野氏が、日本から来たというのを、ワ族の誰もが理解できずに中国のどこから来たのか、と
問い詰めた挙句、中国とは海で隔てられた島(島という概念も彼ら山岳民族なのでか、ない模様)と説明するのだが、結局、
彼らの中で日本のことを
水中国 と表現したことである。
ワ族がクメール民族と、遠縁くらいになるとして、この表し方は非常に興味深い。
というのも、思い出せばステロタイプな中国は隋書ないし唐書によるカンボジアの歴史の説明として
うんざりさせられることに真臘(チェンラという呼名は荒唐無稽、なんでこの時代北の一方言に過ぎず体系化もされていない北京語で真臘をチェンラと読まなければならないのか、ちなみに唐詩も北京語で読めば平仄は滅茶苦茶で話にならなず、呉音に近い日本語で音読したほうがはるかに韻が味わえるー大脱線であるが)
真臘が陸真臘と水真臘に分かれた(西暦711年ごろ)、ということがある。
ここらへんはカンボジアの歴史をご存知な方なら常識であろう。
うんざりさせられることに真臘(チェンラという呼名は荒唐無稽、なんでこの時代北の一方言に過ぎず体系化もされていない北京語で真臘をチェンラと読まなければならないのか、ちなみに唐詩も北京語で読めば平仄は滅茶苦茶で話にならなず、呉音に近い日本語で音読したほうがはるかに韻が味わえるー大脱線であるが)
真臘が陸真臘と水真臘に分かれた(西暦711年ごろ)、ということがある。
ここらへんはカンボジアの歴史をご存知な方なら常識であろう。
この真臘の分裂については、二つに分かれたとかいう割り切った話ではなく、錯綜していてあちこちで地方の有力者が好き勝手やってたらしいことくらいしかわかっていないが、ジャヤヴァルマン1世ないし1世乙(bis)の中央集権が機能していた7世紀後半から、その娘Jayadeviが女王となり、711,2年頃にバラバラになった国を嘆くTaKeo碑文を残したカンボジア国内の遺物と照合すれば分裂自体は実際にあったのであろう。この女王様も713年以降消息が途絶えるのでそのころ亡くなったのだろうと考えられているが。
しかし、バラバラと言いながら、アンコールはAk YumからTaKeo州にかけて碑文を残せるのはどういうことか。
それとずいぶん前にも書いたが、分裂といいながらカンボジア国内やコラート高原、ラオス、ベトナム南部においてもそれなりに美術様式が統一された寺院が建立され続けていたのもどうなのかと思われるが。
それとずいぶん前にも書いたが、分裂といいながらカンボジア国内やコラート高原、ラオス、ベトナム南部においてもそれなりに美術様式が統一された寺院が建立され続けていたのもどうなのかと思われるが。
水真臘とは分裂した真臘、の一部、という考えのほかに
真臘以外のどっかの島嶼部の国(となるとJava=シュリーヴィジャヤ,もしくは辛うじて扶南の末裔説が残るそのシュリーヴィジャヤも包摂するかもしれないシャイーレンドラ ここら辺は複雑でよくわからない)
が真臘内部のゴタゴタで亡命したり逃げ込んだり、捕まったりした王族ないし有力者を抱え込んだ
結果(となるとSdok Kak Thom碑文の信ぴょう性が増すが)。
真臘以外のどっかの島嶼部の国(となるとJava=シュリーヴィジャヤ,もしくは辛うじて扶南の末裔説が残るそのシュリーヴィジャヤも包摂するかもしれないシャイーレンドラ ここら辺は複雑でよくわからない)
が真臘内部のゴタゴタで亡命したり逃げ込んだり、捕まったりした王族ないし有力者を抱え込んだ
結果(となるとSdok Kak Thom碑文の信ぴょう性が増すが)。
それを則天武后の時代に唐、ないしは周に入った、陸真臘=カンボジアないしインドシナ半島の勢力のクメール人が、その国の名を知らずにやむなくモンクメール語的な感覚で、水真臘と表現したかもしれない。(まあ隋唐は東南アジアの国については一通り把握していたようだが)。
というものを一考してもよいのかもしれない、というメモであります。