カンボジアの歴史探訪 2

つかいにくいのでFC2にて活動しますわ。

0341 Kdei Ang-Tuol Chumnikと4541 Prasat Ta Mol(仮;もしくは未知の遺跡)の相同について

追記:Prasat Ta Molですが、遺跡地図を見るにどうも、この記事で画像上げている箇所より南南東に
あるようです。
グーグルマップでいうとここらへんです。

CISARAKさんがまた日曜夜に休みを取って、データもボロボロになっており、推定しかできませんが、
このあたり、CISARKにも遺跡地図にも全く載っていない、明らかな遺構がたくさんあります。

この記事で書いたTa Molも全く記録がなく、違う遺跡とすればえらいことですが、たぶん文化局自体は調査していると信じたいところです。

とりあえず、記事の中の遺跡名はそのままにしておきますが、いずれ遠い未来に修正するかもしれません。

・・・

とりあえず作業中に気づいたのでこれもメモです。
他に書くべきことはあるのに何やってるんでしょうか。




イメージ 1


CISARK 4541 Prasat Ta Mol(仮)およびその東西の池とTuolの構成 Svay Chek ,Banteay Meanchey

イメージ 2


比較しやすいように連続して上げましたがCISARKさんより
Kdei Ang(Chumnik)のPlan再掲、再度指摘しときますが、不正確です。

イメージ 3


衛星写真と現地で見た分を鑑みるに、やや軸が東北東ー西南西にずれていて、
西から
①Tuol Skeal②Prasat(寺院があったところ)③そして池の西岸の土手が、いろいろ出土した、Tuol Chumnik③’東が池。

池の土手は幅広くなっていて住居があったことはカンボジアどこでも見られる古い池の特徴ですが。
6世紀から7世紀のスカンダ像や碑文が出るのは稀有ですね。

中央の寺院の南東部では、土器からアンコール期の黒釉陶器を見出しましたので、こちらも
アンコール時代にも普通に現役の寺院だったと考えられます。

翻って調べてて見つけたPrasat Ta Molですが、


こちらは、
西端から、①わたくしが過大評価しているだけかもしれませんが寺院ないしTuol②そしてTuol③環濠を持つ寺院、④最後に東に池です。

こちらは未見で、しかも遺物もほとんどないようですので何とも言えませんがCISARKさんによると砂岩の寺院の残骸のようで、アンコール期でしょうか。
ただ、関係はないけど、この一帯はPhum Snayを引き合いに出すまでもなく、古代、青銅器時代の円形集落だらけです。
航空写真を見てるだけで驚愕します。古代の一大集合体国家だったのでしょう。

ただそれは話の筋道から逸れるのでおいといて、

カンボジアの西と東でどうしてこのような類似した場所があるのか。

軸の傾きまでそっくりです。
正確には測れませんが、上下に並べると、軸が平行に見えるでしょう。

たまたまにしては驚くべき相同です。
これは何かしらの意味があるのではなかろうかと思います。

こういう軸のずらし方すら、規格があったのではないかとすら思えます。


さらに、両地区とももう少し広域を見てみれば

イメージ 4

Kdei Angのほうは北方のVat Sera Charlek(碑文の寺、碑文なかった)の軸まで平行になっています。
その他付近の怪しげな森、池もこの遺跡の東西軸に合わせたかのように傾いています。

つまりこの一帯はそういう傾きを以て古代、都市計画されたといえるでしょう。

翻ってPrasat Ta Molを見てみれば
イメージ 5


こっちの北方も遺跡が、並んでいること自体驚きですが、
北方は東西軸にそって、まっすぐ、並んでいます。

これは北方は王道というのか、古道が通っている(アンコール時代の)のもあるでしょう。線が見えていると思います。
上と下で時代にずれがあるかもしれません。

ここでいったん話を終えて、

他に類例を見つけたらおいおい追加しようと思ってましたが、
あろうことか一番重要なところを失念しておりました。

ここ出したら一発ですべてが解決してしまうでしょう(風呂敷バサー)


Ishanapura:サンボ―プレイクックの、健全な観光客が見に行く遺跡群ではなく、その西に広がります
7世紀の古都伊奢那城ことイシャーナプラです。

イメージ 6


池や遺構の並びが、城内では同じような角度で北東ー南西軸に傾いているようです。
その軸に沿って3列ほど、平行に
早稲田大学が土器発掘で掘りまくったマウンドが並んでおります。が画像では2列しか映ってません、たぶん。

イシャーナプラとはエイサーン、タイのイサーン(東北)地方と同じくシヴァ神の1形態Ishanaからきていて、
ご存知の通り東北の守護神です
その名を冠した都が東北に若干向いているのはおかしなことではないと思われます。

ただここで思考停止していたら真実には迫れないとも、思われます。

なので、とりあえず上記3遺跡が同じ角度で傾いているらしきことを画像で確認しておくにとどめますが、どんどん事例を重ねていきたいと思います。

では、最初に。

Kdei Ang、もちろんここはSkanda像を出土してるくらいのシヴァ信仰の遺跡と言えます。
一番上の画像を、遺跡の並びがX軸(東西)方向に平行になるまで、時計回りに回転させると、12.3度ほどで遺跡の並びがCISARKさんのPLANのイメージに近づきます。
イメージ 7


この12,3度回転を他の2か所でもやってみると、
Ishanapura
イメージ 8

Prasat Ta Mol(仮
イメージ 9


まあ正確に線引きしてるわけじゃないので、角度も、また緯度経度による偏差もあると思われますが、
ご覧の通り、大体12.3度傾けると、X軸にほぼ平行になるのがお分かりになられるかと。

すなわちほぼ同じ角度で意図的に軸を傾かせていると推測されると思われます。

それに信仰的な意味を見出すのか、それ以外の理由を見出すのか今のところはわかりませんが、
7世紀の遺跡を二か所並べた限り、この時代には規格化されていた(それ以前については現状探してませんが)という仮説を立てられます。

3つ目のPrasat Ta Mol(仮)がいつの時代のものか、実見してみないとわかりませんので来年になると思いますが行ってみようと思います。

ちなみにサンボ―プレイクックの各遺跡も若干東西軸から北に傾いていますがバラバラで向きもバラバラですね。むしろさらに東の池などは この「規格」に忠実な角度で傾いています。

10000か所以上あるうちの3か所で鬼の首を取ったような風呂敷を広げさせていただきました。

カンボジアの歴史を調べるには遺跡だけ見てては問題外なのは当然ですが、
場所や時代の差異にもかかわらず、共通している構造など考えていくのはなにがしかのヒントになるのではないかと思われます。

また生活遺構である場合、その生活や交易の程度にもよるでしょうが、土器片やカンボジアのクメール陶器、ないしは中国からの輸入陶磁器によって時代やその場所を支配していた人のお金はなかったけど富や、威信の程度も推測されるでしょう。
先述したとおり、
イメージ 10

Kdei Angの中央、寺院のあったと思しき丘の南東側、環濠への坂です。白いのは磁器で明清のもので汕頭などの、雑器でしょう。元染であれば一大事ですがw
まあ実際の遺跡の画像なしじゃつまらないので一つだけ挙げときました。て、どこかわからないですねこれじゃw

・・・


とまあサンボープレイクックと同じような傾きで並んでいる遺跡だけで、ここまで妄想膨らませましたが、もちろん、24度傾いている遺跡やら時計回転に傾いている遺跡やらなんぼでも、節操なくありますので、
話半分まで。

ただ同じような、丘、寺院、池、で同じような傾きの遺跡があればじわじわ記事を加筆していきたいと思います。

追記
もう一つ忘れてました。とんでもないです。

Ko Kerのメインです。
イメージ 11

時計回りに12.3度ほど傾けてみましょう。

イメージ 12


・・・

しゃれになりません。ここも同角度です。
というかコーケーを一番に持ってきてサンボー、そして各地方の知られざる遺跡へと帰納していくべきだったかもしれません。が、ともかく。


角度は誤差があるにしろほぼ一致。同一規格と言い切りましょう。

7世紀から10世紀、11世紀までこの傾きが活きていることが推定されます。
えらいことです。

これは本気で研究すべきではないでしょうか?