カンボジアの歴史探訪 2

つかいにくいのでFC2にて活動しますわ。

東京国立博物館東洋館の展示物と遺跡の名について6/20改

まあみなさん行かれてて特に書くこともないですが、いくつの展示品の遺跡について
ちょっと触れておきましょう。

なんか前に比べると表記が修正されててまともになってる気もしましたので。

まあ場所が分かればなんらかのイメージの手助けになるでしょうし、

こういうへんてこりんな話できるところもあまりないでしょうから。

遺跡に場所をリンクしております。

あとのめぼしいものはアンコールトムのテラスとか有名どころばかりなので触れません。

1941年に仏印進駐してからの交換品かと思ってましたが、ギメのHP見るとそれ以前の1938年、フランスがナチスドイツに占領される辛うじて前から交流があり交換していたみたいですね。戦中の件はいろいろ本が出てて見る限りゴタゴタした印象だったんですが。

一つ目

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プラサートオーロック Prasat O LokとなってますがPrasat Ov Laok IK584.02 プラサートバコンの裏(西)ですので、ロリュオス遺跡群のグループで様式も、9世紀末前後のプレアコー様式で全くその通りすぎて特に言う事もございません。

EFEOの当時の画像にもこのヴィシュヌ神像は写っていて台座の部分に3102と書かれていましたが、
もちろん消されているようです。

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九曜神像ということで、日月火水木金土ラフーケトゥーと並んでいるそうでスタンダードなものですが、コンディションはあまりよくないようでお顔が削れていますね。

この出土地のネアクターコンスロックNeak Ta Kong Srok IK.675ですが、Siem Reap州 Kralanhの北で、
グーグルストリートビューがなぜか付近の農道まで通ってますが、遺跡の上に民家が建っているようです。

この出土品もEFEOに画像がのこっているので、これだけCISARKさんから引用しますが。

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楣の上に載ってますが、本来祠堂の内部におかれていたんでしょうね。しかしどういう風に置かれていたのかはわかりません。

さて次のが問題です。

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ラクシュミーですね。
出土遺跡はターセル Ta Selとなってますが、
こんな遺跡はありません。

CISARKさんの消滅したデータにあったのかもしれませんが。
(そういやCISARK今週は毎週恒例の日曜夜に落ちても月曜朝には復旧してましたね)
ただし。
Phnom Tasel IK556.25という遺跡は載っています。1184.

しかし場所も同定されておらず、クーレン山の東と書かれておりあいまいです。
IK.3巻のIK556には触れておらず(556自体はPrasat Anduong今ではO Phaongとして クーレン山中随一のレンガ塔遺跡)後補の資料があるんでしょうけど、CISARKさんにも書いてないので探せません。

さらにクーレン山中なら9世紀前後のプノムクーレン様式であるはずですが、このリンテルは
記載の11世紀か、下手すればアンコールワット様式もありえます。

ここだけ保留ですね。。。


気を取り直して

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Prasat Kduong IK.649プラサートクドン出土で、ここはシェムリアプ州Puok地区の北西にある遺跡ですね。
ここ等へんPrasat BangkaongIK.650といい、同じような時代の、残っていればすごかったであろう遺跡が点在しているようです。

(追記:ついでに出土したこのリンテルのEFEOの
上げときます。容量ギリギリですが現地写真ないと何とも締まりませんね。
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ただここももちろんこの画像のようなレンガ塔の遺構は影も形もなくなっているようですが。)

すなわちバンテアイスレイ様式からバプーオン様式への過渡期の遺跡で、

ここから出た神像もしょうがないので参照のため引用します。
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ということで東博の表記は10世紀になってますが、11世紀初頭ではないかと思われます。
とはいえ最近この2つの美術様式は連続したものであるという気がしてならないのですが。

最後はそのバンテアイスレイ様式のど真ん中、東博でも代表的なリンテルであるこれですね。
Prasat Sralau IK.609でこれは解説は撮影してません。

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ついでなのでここも当時の現地写真を追加しときます。てか昔も出したかもしれませんが。
ちなみに今碑文も見れるようなので行きたいもんですねまた。

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せっかくなので先月プノンペンで撮った相方も貼っておきましょう。
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本当に精緻ではあります。
ただやはりこれを言っちゃおしまいですがwバンテアイスレイはどうしてああも完璧なんでしょう。

しかし、遺跡から運ばれ片やプノンペン、こなた東京に分かれ、

1998年には東京大阪でこれが並んでいたと思うとなんともいえないですね。

あとの展示物は大体アンコールトムはじめアンコール遺跡群からのものが主で、観光していれば見る場所ですので特段わたくしが書く必要もないでしょう。

まあ出土地がリアルにわかるとまた一興かと思われ百出している東博の展示物について記してみました。

最後にこれを見ると、どうやらフランスは日本に、主にというかほとんど、シェムリアプ州出土の遺物のみを送っているのではないかという印象です。

つまりシェムリアプの遺跡保存事務所にあったものを選んで送ったんじゃなかろうかと思われます。
逆に日本側の興味も第二次アンコールワットブームだった戦中初期にはアンコール遺跡群に集中していて地方の遺跡などまだ蚊帳の外だったのではと思われますが。

まあそこらへんのことはいろいろ書かれている本もありますがいずれ近代史としてまとめられればと思います。

東博にはいつもカンボジアでお世話になっている現地旅行会社の大将であるO氏と見に行ったんですが、
帰りに上野の坂を下りてたらO氏がいきなりクメール語で叫び出したので振り返ると、クメール人の若者一行がいて、なかなかさわやかなみなさんとあいさつなどして不思議なひと時でした。

参照はCISARKさんサイト http://cisark.mcfa.gov.kh/