カンボジアの歴史探訪 2

つかいにくいのでFC2にて活動しますわ。

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ラタナキリ
文化局で遺跡情報と、現地の管理者の連絡先を聞いて案内してもらうことにしたが結局局長さんに聞かないといけなくなり面倒である。
通されて部屋に入ると局長さんが電話で聞いてくれてたがついでに棚の上にあるドゥルガー像の残欠など電話の最中に見せてもらう。

今から目指すPrasat Au Preah出土という。
アンコール期と去年聞いたがまたプレアンコールである。
ルンファットにまた行って学校前で案内のあんちゃんと待ち合わせ、横の無人の店の椅子に厚かましく座られてもらう。
途中で店のおばちゃんが帰って来たが、座ってなさいよと快く世間話を始める。
廃都と散々書いたがまた人が住み始めて村になっている。が、ほとんど全てよそからの移住者で、おばちゃんもなんとTaKaev州はプノンチソーの近くから、先に来ていた、いとこの紹介で移り住んだという。タケオ州では食っていけなくてこちらに来て、それからは児童や通りすがりの客相手にノウムバンチョックを売って今は一日10kg仕入れても売り切れるという。本日は中華正月で製麺業者が休みというのでのんびりしてるとのこと。土地も安く値段聞いて運転手氏が人に紹介すると言って、メモを取っていた。チソーといえば絹織物であるがおばちゃんも織ってはいたらしい(ただもともと彼女らは商売のため機織りしたりはしていなかった)。ガイド氏が亡くなった森本さんのとこにいる、タケオ出身のお年寄りを知らないか聞くがしらなかったようだ。

おばちゃんに限らずこの村は全て近年カンボジア南部からの移住者で出来上がったらしくクマエクラオムもいるとのこと。土地が安いので買ってみんな移住して生活は良くなったらしい。

延々待ってるとやっとバイクに乗ったあんちゃんがやってくるが遺跡管理人というよりただのバイタクである。値切って(運転手氏が頑張ってくれた)あんちゃんの家まで3ケツで行く。
そこでもう一台バイタクを待つ。あんちゃんたちは10年前にスヴァイリエン州から移住したとのこと。3年前に建てたという家は大きく、稼げているのだろう。
家の裏に州都時代のコンクリートの廃屋があり、その作り見てガイド氏はシハヌーク時代はいろいろ進化してたのにという。
そうこうしてるうちにバイタクも来て出発して車道からルンファット保護区のヘッドクオーターオフィスのところから脇道を曲がる。が、GPS ログを取ろうと止まったのが悪かったのかオフィスから偉そうな山賊が出て来た。その怒りの顛末は頭にきてグーグルマップのこの自然保護区のレビューにも買いておいたが、いろいろ難癖つけた挙句レンジャーを安全のために一人同行させるので10$払えなどという。あちこち関係部署に電話して観光局の許可がとか言ってるが観光局が自然保護に関係してるわけがない。大体去年行った観光局なんでおっさん一人おばちゃん二人しかおらずメジャーな観光地のことくらいしか知らない。なにもかもがでたらめくさい。文化局のあんちゃんもめんどくさそうな顔して黙って待っている。

しかも昼間から酒臭い。台湾で酒飲んで暴れて首になった俳優にそっくりであるが、
散々時間くって
とりあえずレンジャーのあんちゃん連れて出発するがただついてくるだけである。なんの仕事もしない。したことといえば遺跡で仲良く記念撮影したくらいである。
まあ何もせず我々の後をついて回っただけで途中木材を満載したトラクターとすれ違っても何も言わない(自然保護区?)のは、逆にわたくしがこういう現場を撮影して発表しないように見張るためだろう。

遺跡自体はラテライトの不思議な配列があるレンガ塔の痕跡と瓦か土器か分厚い陶片で川沿いかと思ったら少し離れていたようだが傾斜を東に下ると川でなく湖沼になっているという。が藪に覆われ行けなかった。

件のオフィスに戻って金を強奪されさっきの酒乱俳優もどきはただの酔っ払いになっててこちらにやたら真顔で敬礼してくるので答礼して逃げたがガイド氏はちょっと捕まってまだ書類がどうとか絡まれたらしい。断って来たとのこと。
こんなことばかりしてたら誰も来なくなる、というか来ないようにしてるのかもしれない。

無駄に時間を浪費したので78号線に戻り道端の昼営業も終わりの店でカップ麺と肉まんを食べてもう一つ。
Prasat Bak Yaanに。
電話で連絡してもらったら遺跡管理人がガソリンスタンドで待ってるというので分岐点であるTrapeang Krahamのガソリンスタンドに行くが道を曲がって20km行った、もう遺跡のすぐ近くの地点のガソリンスタンドだという。ダートロードに入るが所々木の橋を車は通れないので迂回するが道自体はそこまで悪くない。
しかし人跡疎らで寒村があっては消えてしまい、無人の荒野を行くのみである。ガソリンスタンドどころか村あるのかと不安にいう運転手氏とガイド氏だがストゥントレンとの州境になり丘を登ったら忽然と小店とガソリンスタンドが現れた。店から管理人のあんちゃんが現れて握手する。
ここから北に少し車で行きそこから徒歩で東へ小山を巻いて谷を通りトラペアンを見て、なんとその中で野焼きして開墾しようとしてる農夫がいるのをあんちゃんがそこは禁止ですやめなさいと注意する。こっちのあんちゃんは仕事している。
谷を南に進み東の小山の社面を登ると方形に砂岩が積まれたものが無数に並んでいる。縦横2m前後x1.2m強高さ5,60cmほどか。
なんとも虚ろな雰囲気だがそれというのもこの砂岩の石積みは3世紀ごろの墓という。どっから3世紀と決まったのかわからなかったが発掘したのかもしれない。石積んだのは遺体を動物に食い荒らされないためという。
つまり土葬文化である。他に類例あるか?(追記:数日前に見たのを失念しておりました)。

それにしても山を越えて東から南の谷まで数が無数にある。こんなに墓があるということは集落もあったはずでどれがけの規模だったのか興味深いさらにほとんど盗掘もされていない。近年まで未知だったのが幸いしたのか。今後の研究が待たれるが死者の谷というか独特の雰囲気を持つこの場はそっとしっておいた方がいいかもしれない。
この谷から北の峰を超えて谷に下ると途中猪の足跡があり石積みの意味を再確認したりしつつ、山の斜面に石垣が南北に並びそののしの谷にレンガが散乱してこっちは盗掘されて穴があいた、これもプレアンコール期の、レンガ塔の痕跡がある。峰挟んで墓と反対のこっち側にレンガ塔を建てたのは池といい北側が生者の場所で南側が死者の場所だったのであろうか。3世紀の墓から7世紀の寺院まではここに生活の場があったのだろう。
車に戻ったがバックドアの引手をガイド氏が破壊し運転手氏激おこである。しばらく直そうとしてたが無理でその間管理人のあんちゃんとわたくしはポカンと待ってるのみである。夕日が沈みそうになって諦めた。

ホテルが本当に空いてるか心配したがフロントに昨日と同じ女の子がいてデポジットの紙無くしたが大丈夫だった。カンボジア人の家族連れが多く来ていた。
昨夜と同じ食堂に行くが中華正月のせいか満員でしかも昨日あんなに元気だったおばちゃんが具合が悪く奥で寝ている。大丈夫か?

よその店に行くが閉まっててウロウロしてたら呼び込みのねえちゃんに捕まった。いろいろ料理あるというので入る。親族できてる客など普通のレストランだが途中で呼び込んだねえちゃんが女いらんか紹介するなどという。普通のレストラン(と思うが)でこういうこともあるのかと驚く。表と裏は紙一重である。
お断りして
鹿のステーキ青ごしょうかけとかちょっと固いトラクオルーオオトカゲとか食べてたら客が引けて暇になったのかねえちゃんがやって来て話をする。店のオーナーはカンボジア人で今ニュージーランドに住んでて元々はコンポート州出身でとかいう話で、眠くなって来たがねえちゃんが少数民族なんだろうかとふと思ってガイド氏に聞くとその話になってあなたはクメール人か?とわたくしにはセンシティブに思う問いもガイド氏などは御構い無しに聞き、聞かれる方も気にしない。
コンポンンチャム州スオンの近くの出身と聞いてじゃあPreah Theat Serei とかKtomとか知ってるかあの近くかなんならBanteay Prei Nokor が近いかとと結局遺跡の話になるのであった。ちなみにPreah Theat なんとかは知ってるというが聞いたことない。異名であろう。なんでラタナキリに来たかと問われてこの店でも
無事わたくしは遺跡のおっさんと認定された。商魂たくましく朝食もやってるというが、明日はわたくしは前回と異なりホテルが朝食付きになっていて、中華正月で高いので別の、中華正月なんて関係なく普段通りの、リーズナブルな価格のホテル泊まったガイド氏たちも別の店に行くだろうと思う。