カンボジアの歴史探訪 2

つかいにくいのでFC2にて活動しますわ。

2019年2月乾季の旅 その1

帰国したのでまた今回訪った歴史的なサイトについて順次列挙していく。

2月2日
Kompong Thom州 
Tang Krasang
1.Vat Tang Krasang CISARK 7694だがデータ消滅 以前印刷していたのでよかった。
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2.Prasat Kok Khvet
IK.98 再訪 こんな遺跡でもCISARKデータ消滅。もうCISARKにはまともな機能期待できないと思われる。
南側に現代寺院建設中で、いいことかもしれないが、以前の平原にぽつんと建ってたあの雰囲気は損なわれている。
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3.Neak Ta Sangkream CISARK3914 ここだけなぜかCISARKに残る。ラテライトの基壇の上にネアクターの祠、台座とそのうえに男女のネアkター(発音的にはこんな感じ)
グーグルのストリートビューでも見れる。
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Kok Rovieng
4.Phnom Cheung Prei PalaisIK.104が本院で記載ないがBurugier氏の本でここ含めて付属施設の紹介を詳述している。
ストリートビューここにも入り込んでいて見れるが、CISARKはデータ消滅している。
今やアシラムかクディかしらないが回廊に住み込んでいる人がいてこの裏手では煮炊きしてた。
遺跡に住み着いているのは、けしからんことである(うらやましくてしょうがない)。
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Prei Chhor
5.Prasat Kuk Yeay Hom IK.88再訪 だがすっかり整備されていて初見に近い。
ここもCISARKデータ消滅。
重要遺跡であるのだが。Bayon期の砂岩祠堂の西にレンガ塔の跡のマウンドが2基。石材には符丁や呪文らしき文言がいろいろ書かれているのは珍しい。が、夕方であまり探せなかった。
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2007年9月に来たときは叢だらけでこういう像があるとは夢にも思わなかった。

ただ初訪問時から相変わらず外濠から内部の陶片の多さ。
そういえば、ここも東北東ー西南西に約12.3度傾いている。

西のラテライトの橋といい古道ー王道と言っていいかもしれないーが通っていたと推測される。
2月3日
Kompong Cham州
Vihear Thom
1.Vat(Moni Saravan) Vihear ThomここもCISARKデータ消滅 826だが。勘弁してほしい。IK.84.05
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北に祠を作って祀られていたがこの一帯ラテライトがごろごろしておりラテライトを一枚岩でこのような破風状にしたものは珍しい。時代も古くサンボープレイクック様式に近い。

2.Tuol Preah Theat 遺跡の構造的にここが謎の消えた遺跡―Groslierがメモに残した、Vihear Thomかと思ったがあのメモでは南北軸に並んでいたのでやはり違うのか。
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リンテルがほぼ無傷で現地に残るのは珍しい。ここもCISARKデータ昨年消滅。このリンテルの下は横から掘られた盗掘穴、ということになっているがその割には天井があり深くまでラテライトの基部が見える。
その上リンテルが載ってるような、天井がある。どういうことか。

3.Vat Preah Houch
ここもCISARKデータ消滅。
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ただの石柱ではないのは頂部にも装飾が施されている様子からうかがえる。リンガであるが、
八角のリンガは本当に珍しい。ピダンを外して見せていただいた村の人たちに感謝する。

ここも陶片若干。地図で見ると3と関係があるであろう。この寺から3まで歩いて往復したほうがいいかもしれない。

4.Vat Andong Svay IK84.05? CISARK3610 このVihear ThomどころかKompong Siem地区のデータここしか残ってなくVat Nokor(Banchey,もしくはBachey)という大寺院はおろかPhnom Pros,Phnom Sreiも消えている。
この岩稜にVihear ThomがあったのではというのがBruguier氏らCISARKの、もしかしたらEFEOの推測のようだ。CISARKの画像の通りネアクターに神像の足のみ残っている。

北にラテライトの岩稜があり、山頂まで行くとラテライトで結界された方形の、それも当然のように東西に軸をもっているが、その頂部にトタンの謎の小屋が建っていて鍵がかかっていた。
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それよりも、である。
その緩やかな南斜面に、訪問時はただの畑耕した時の石集めた土塁かトーチカかなんかかと思ってた長方形の砂岩の石積みが多く見られたが、帰国して見直すとなんとまあ次の記事で上げる予定のラタナキリ州でみた3世紀の石の墓と同じ形状同じようなサイズでいくつも並んでいる。
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これは。

もしかしたらもしかするかもしれない。確かにこの一帯は空虚でラタナキリの石の墓の谷と同じ雰囲気がある。

が何の資料もないので何とも言えない。また村人がやっただけかもしれない。しかしこれはちょっと大変な遺構かもしれない。まずは再訪して村人に聞き取りするしかないか。


5.Vat Krala
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寺の結界をなすSemaの台座が一つを除いてすべてアンコール期、もしかしたらプレアンコール期のものもあるかもしれないが、それらの時代の台座を再利用していた。

この地区もう一か所Neak Taが登録されていたが行きそびれた。
Memot
6.Memot Archaeological museumシハヌーク時代の美しい家を改装した博物館で外観だけでもきれいなものである。まあ前日ペンキ塗りなおしたらしくペンキのにおいが漂っているが。それでもコロニアルな雰囲気を残していてよい。

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二階が展示室になっていて階段がやや急ではあるがパネル展示やKrek,Memotなどの先史時代の遺構遺跡の調査の歴史から遺物、博物館へ村人から持ち込まれた陶器の猪などが展示されている。グーグルマップの情報が不正確で毎日開けているとのことだった。一応修正送っておいた。もっと来館者を増やしたいらしいので多少協力したい。

2月4日
Mondolkiri州
Sen Monolom
1.モンドルキリ州文化局
 
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いろいろお世話になりました。それにしてもほんと町はずれにあって不憫だが。

Kaev Sema
この地区も昨年まではCISARKに3か所載っていたが地区ごとデータ飛ばして消滅した。
Memang
2.Sara Khum Memang
無人でだれもおらず窓から必死で盗撮した。一応地区長や鍵を持ってる人、みな出払っていた―勤務はどうした?―には電話しているが。これも中華正月の風習が浸透した影響である。
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Kratie州博物館に収蔵され、たぶんまだプノンペンで修復中のいくつかの碑文と同様の様式。で
真西を見ればクラチェと近接しているので当然かもしれない。こうなるとセデス先生の書いた通り8世紀後半はSambourからKhvan Pirそしてここら辺まで同一の支配者の支配地域であったのかもしれない。

このあと、CISARKになぜかデータが残っているKo Nheakにあるのかないのかあやしい、Burguier氏らがKoh Mayeul調査したときに噂で聞いたというレンガ塔の遺跡、文化局でも探しているが全く見つからないという―それの情報でも聞いてみようとKoh Nheakの庁舎に行ってみたがここも平日夕方前なのに無人だった。文化局は文化芸術省で国家公務員だがまじめに働いているのに、地方の公務員はこういうのばっかりなのか。これも中華正月のせいなのか。
Ratanakiri州
Lum Phat
3.Vat Aranha Ram
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思った通りSrepok川越しに見る夕日が抒情的で穏やかな気分にさせる。川に面した四阿もあった。
洪水で寺毎沈んだこともあるらしい。廃都となった一因の痕跡が見られる、かもしれない。ここも歴史の一証人といえる。

おまけ
懺悔を込めて
Mondolkiri州の道で
車が跳ねてしまった鳥さん。
美しい鳥で調べても分からないので誰かご存知の方がいたらご教示のほどお願いします。

レッドデータだったら本当申し訳ない。

しかし道の横の森を野焼きされて煙にいぶされて、あるいは、巣を焼かれて車道に出てきたのだろうと思う。3羽いて2羽は逃げおおせたがこの鳥だけは飛び立って車に突っ込みぶつかってしまった。生き延びた二羽は所在なさげに野焼きの森側の電柱の上に止まっていたのがまた気の毒でしょうがない。
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