カンボジアの歴史探訪 2

つかいにくいのでFC2にて活動しますわ。

令和元年五月二日

引き続きSambor Prei Kuk
チケット買ったら昨日も来てた?と驚かれる。それくらい客がいないのだ。遺跡があるので何度でも来るのだと言っておいた。

1.M.043Changat Sampov最南端の湖沼のほとりに舵の形の大石。
それは良いがなんか警官がたくさんいる。みると木々にタープを張り蚊帳を吊ったりして煮炊きまでしてるようだ。
何事かと思ったら驚くべきことにシェムリアプ州警察の皆さんで遺跡監視のために一月から派遣されてここで野宿して生活していると言う。雨季が来て暴風雨が来たらひとたまりもない。まともな宿舎は無いのかと聞くと上の方に頼んではいるらしいが全く話が進まないらしい。運転手氏の知り合いもいて話している。
今までわたくしは散々警察をオフィシャル山賊と書いてきたが流石にこれは気の毒である。一昨日トランプ賭博で奇声をあげていたのと大違いである。本当に頭が下がる。
2.M.042 Prasat Kong Veang? 世界遺産とはすなわち自然保護も一つの条件なのだろう。文化遺産あっても。てことで道から密林に入ると訳がわからない。早稲田大学の座標もちょっとズレがあるようだ。その場所には何もなかった。まあ発掘してやっとわかるマウンドなのかも知れない。
3.M041 Prasat Kok Treang こっちは道の横で立派なレンガ塔である。グーグルマップではTa Samと登録されている。その座標の方が、にしにずれてる早稲田大学の登録した座標より正確。

4.Prasat Trapeang Ropeak z1-5主祠堂を、多分一基のみ残ってるのがそうであるので、八角祠堂が四隅を囲んでいたか。
遺跡の保存係の人が草刈ってた。グーグルマップで道もあるが車は通れないよう柵がある。
5.Prasat Y 4のお隣で見えている。八角祠堂。
6. M.038 C8-3マウンドにレンガ少々のみ残る。
7,M.037 C8-2ここも密林の中で分からなかった。
これより北にもCグループが並んでいるが車で移動して上から回った方がいい。
8.Prasat Tao言わずと知れた中心の寺院。
だがメイン3寺院の中では付随寺院が全て崩壊しているのはアメリカによる爆撃を受けたこともあるかもしれない。
9.M032? M.033-36 C2-6?1-5?
南北に直列する5基のレンガ塔。ここもそれなりに整備されて8の西で見やすかった。

10.M.022 Prasat Sreng Treach メインの道沿いのレンガ塔。保存事務所の南西。保存事務所の工事は終わり綺麗になっていたが入ればよかった。ネアクターもあり見たら連子窓の石材などが祀ってあった。

11.Prasat Sambour の外周壁の門の前に未完成のリンテル。

今日は現地の食堂で食べることにして画一的な食堂が集まっていたところに行くが道に面した店以外は客が来ず潰れてる。
空いてる一件の、木陰の木の露台で涼む。客が少なく家賃払うのが大変らしい。そこら辺うろついてる地鶏の料理でまあまあすぐに出来てうまかった。途中日本人とドライバーが来て置いてた下田論文の日本語見てドライバーがジャポン?となぜかびっくりしてたがすぐいなくなった。

北方へ。
12.C6-3? 6だけやたら北に離れていてちょっとおかしなナンバリングである。 水牛ののたうち場で竹も多く座標利点は何もなし。もう少し西ではと思うが水牛と泥沼でよく蒸れず。
こんな場所なのになぜかコンクリの道しるべが建っててシュールすぎる。
Prasat Robang Romeas 群
安易にクロルロメアスと呼ばれ名前が変わりつつあるがこまったもんである。
13.Prasat Serei Krup Leak めんどくさい、もといポリティカルコレクトな輩から文句が出そうな 貞淑で家事万端優秀な奥様という名であるがくだらない理由で改名されませんように。
七基の前室を持つ10世紀の寺院。一部リンテル再利用。15年ぶりに来た。碑文読めば色々わかるか?前は綺麗になってなく気づいてなかった、と思う。
14. Prasat Robang Romeas 八基と後衛のpalais?を持つ10世紀メインの寺院。
15.Prasat Neang Preah 一基のみ。
また雷雨がチラリと来て引き上げるがシェムリアプへの途中また暴風雨で6号線も若木が何本も倒れている。やはりゲリラ豪雨で今年はおかしい。
しかしさらに進むと雨など嘘のように日が照っている。
シェムリアプについて代替わりした旅行会社を切り盛りするSご夫妻と酒を飲む。
なんと驚くべきことに2002年わたくしが親を連れてアンコールに来た時、ホテルで朝食を食べてたら日本人女性スタッフも食事取ってて、日本人が働いてる、と親が話しててあまりジロジロ見るなとわたくしがたしなめたその方がかつての奥さんのほうだった。カンボジア関係妙に世間が狭いのかもしれない。あまり変な行動しないようにしようとこっそり思いました(小並。

令和元年五月一日

新しい時代になりました。
良い時代になりますように。
遺跡が多すぎてコメントする余裕がないのでとりあえずリスト
Isanapura
1.Prasat Phnom Bandel
2.M.107
3.Tuol
4.M.106
5.Knach Tol
6.Knach Tol Khnang Lech
7.M.105
Prasat Sambor
8.Prasat Sambour group
9.N.17 Asram Maha Russei
10.Prasat Chrey
11.N.15 Prasat Daum Chan N16-1,2
12.N19
13.N.20 Prasat Kbal Chrouk
14.N.21Prasat Sandan
15.N.31 Prasat Bos Romeas
16.N31-1?
17.N.24 Prasat Rong Chambak
18.C7group

何しろ暑いです。
イシャーナプラ内の田んぼの中うろついてたら命の危険を感じます。また、赤蟻にたかられ噛まれまくります。
切り上げて弁当をPrasat Sambor の城壁の崩れた上で遺跡を皆が食べるのは一興ですが売り子さんからジュースなど買って普通の値段で売ってるのでもっとぼったくりなよと言ったり暑さでおかしくなってます。令和の10連休ですが去年より日本人が少なく観光客もカンボジア人がちらほら。客自体閑散としてるのはしょうがないが世界遺産で整備もちから入れてるぽいのに寂しいことである。

やっとに日本人の団体がくるが実に静かに見てガイドの話を聞いていたが、観光ツアーの例にもれずあまり滞在せずに引き上げていった。
首にクロマを巻いてN.17とその弾痕や近くの爆撃痕を見てるがずっとクロマーの売り子の女の子がへばりついて離れない。閑散としすぎてなんか憐れを催し、やすいの買ったが色落ちがひどく使いものにはならなかった。
3時すぎた頃から雷鳴と一瞬の小雨があったがあまり涼しくなるわけでもないが森の中なので日陰はある。
サンボープレイクックは下田論文読んで見直すとむしろ10世紀の遺跡でもあると言えるようだ。
色々書くべきことは多いが時間がないのでまた帰国後さらに移転を検討しつつ。

平成三十一年四月三十日

Santuk
1 Phnom Srah Khcau アクセスに苦労することなど遺跡についてはグーグルマップに口コミ書いておいた。サンクチュアリー。
昨日の遺跡の名前じゃないが鉄の杖を持ったにいちゃんがいた。なんかリシ仙みたいな行者ぽい。ガイド氏が聞くと街から歩いて来たらしく森の中を歩いて移動しているらしい。
食べ物は木の葉など食べてるという。
仏堂で線香あげようと思ったらライターが切れていてつかず、ライターを貸してくれた。
ガイド氏最初鉄棒持ってて怖かったというが優しい人だった。彼は祈ってるので夜森の中にいても蚊に刺されないと言う。ほんとか?
彼の人生何があったのか知らないがそういう求道生活も出来るのならいいものかもしれない。

Baray
2.Tuol Vat Angkor Tung Knong
田んぼの中にポツンとある。仏堂が建てられて遺跡の構造は分からないが石材が北東角に新しい折衷の神像の元に集められている。北東に池がある。陶片少々。
3.Vat Tuol 丘状の遺跡の敷地にこちらは寺が建っている。
4.Vat Prasat 名前から期待するが遺跡自体はやはり消えて現代の寺の下に。台座などあるが露店のクーラーボックス置きになっててかつて鎮座してた神仏もがっくりしているだろう。
5.Vat Chatulok古そうな石材一個のみ。小学生に群がられてハルメンのホラ吹き男と化す。花やら木の葉やらやたらくれて付いてくるが写真撮ろうとすると逃げるシャイボーイたちである。
5.Vat Banak
行く途中喉が渇いて飲み物買おうと道端の店に入るがクーラーボックスの中はあまり冷たくない。と言うと奥から冷えたポカリスエットのペットボトルを持ってきた。ポカリはあっという間にカンボジアでも普及したもんだ。寺の中で地面にポカリのボトルキャップが捨てられたりしてるの見つけるとなんともな気分になる。
チェン?中国人かと聞かれるので日本人と答えると店のあんちゃんがドヤ顔でメイドインジャパン!とポカリを差し出す。
カンボジアで流布してるのは韓国産の250ml缶が多いが最近見るようになってきた500mlのペットを見てみるとシンガポール製だった。

で遺跡についてはこの寺院も特に痕跡を見いだす程度であった。
6.Vat Baray 残欠が数点10世紀の破風が美しい台座はプレアンコールもある。ネアクターにも屋根飾りらしき神像の残欠と台座。本日はプレアンコール期と10世紀のセットが多い。
その後昼飯を食べるため村の食堂を探す。国道では警官がビデオカメラで往来を撮影しているがノーヘルのバイクを捕まえるためじゃない。
行ったり来たりして不審がられたら嫌だなあと思い小さな食堂に男どもが集まってるが他にないのでそこに入る。
テーブルに7、8人座ってトランプの大富豪みたいなのをしていい歳したおっさんが叫んでうるさことこの上ない。もちろん無邪気に遊んでるわけじゃなく10ドル紙幣渡したりしている。
おっさんの一人は帽子を横のテーブルに置いてるが帽子にはPOLIC(略と書いてある。呆れたもんである。
ガイド氏に言うと逮捕するのとされるのが一緒の人と言ってゲラゲラ笑う。
焼き飯を食って退散する。

さて本寺のメインである、グーグルマップにカンボジアの人が登録している遺跡2箇所である。
7.Tuol Ta Pichこっちは遺跡地図にも載っている。東の参道と環濠、これはまだしっかり残っていて東に回り込んで入るがその前に北東池二つ。
遠くの池はそこそこ大きく陶片わずかにあり。アリもいて全身群がられしばらく戦う。多分この時マイクロファイバーのタオル落としたらしく無くした。いつのまにかKNTMまで噛みつかれて辟易する。

遺跡は墓地化していて壊されるのが遺憾である。が今のところ仏堂の柱だけ建ってるが工事は放棄されているようでやめてほしいもんである。
ラテライトの周壁、基部とかつてのレンガの主祠堂の入り口の砂岩の枠が残る。台座なども落ちていて遺跡らしい遺跡である。見ると西参道もあったのでそこから出ると環濠西北の畑にも陶片わずかに見いだす。

この辺りから風がまた強まり東で雷鳴がしだす。
8.Tuol Yeay Serei
ここは遺跡地図にはなくCISARK に登録されてたのか?だが今や唯一に拠り所である御先達の遺跡リストで帰国後確認しようと思う。

カンボジア人の二人はまた2年前同様慌ててスマホの電源を落とすが、で電波関係ないと思う。
わたくしはカメラやら色々しょってるので諦念の境地だが、山みたいに金属製品がビリビリ帯電したりの予兆がないならしょうがない。

道から遺跡へ歩いて行くと東で盛んに落雷している。まだ距離は2、3kmあるが。
遺跡の南のその畑は陶片が無数に落ちていて土器から黒釉陶器まで多彩である。が野っ原で雷鳴の中うろついてもアホの極みであるので木が生えている遺跡へ行く。こちらは東参道のみの環濠を持ち、ラテライトの外周壁のあるレンガ寺院で建造物は前衛の経蔵2基と3祠堂のことごとく壊れ穴が見える程度、主祠堂の上には小屋が建ってて鍵がかかっていてわからない。
だが落ちている砂岩の破風や基部の装飾が美しい。やはりクリアン様式、10世紀であろう。遺跡に点在する低木の下に滑り込んで写真を撮って移動を繰り返す。雷鳴が頭上で鳴り出すが幸い落雷はなく天気も晴れ気味である。かえって風が涼しく汗をかかないので身体的には心地よい。精神的には緊迫しているが。徐々に雷鳴落雷の頻度も減りつつ南に移っていった。
しかし西の畑で作業してたおばちゃん二人もとっくに避難してまだ危なくないとは言えない。
もう少し見たかったが引き上げる。涼しいのでタオルがないのも気づかなかった。
しかしやっぱり陶片を見出だすと雷どころじゃなくなる。もう晴れて雷鳴は遠ざかったので色々見つける。
宋の白磁、合子の蓋のかけらなどもあるが畑で耕されてもったいないこと限りない。

グーグルマップでは東の参道の先の土手を行くと環濠のある地形すなわちTuolがあるのが見て取れるがこっちにも色々あるかもしれない。
遺跡研究するなら周囲のこういう生活遺構も含めて調べないといけないのではとアカデミズム界隈には言いたいが今回は自分も行ってないのでおまいうである。

9.Vat Po Pech (Thmei )or Vat Kdei Thlok
国道沿いで期待してなかったがここもかサンボープレイクック様式のリンテルと破風の両端のナーガ像、10世紀のが飾ってあった。
それだけじゃなく本堂西側に二つの時代の台座などが置いてあった。
寺の蔵にこういうことがあるのかも知れない。全て州文化局の登録済みでその指導あったのかもしれない。

もう少し時間あるのでどうせなら
10.Phnom Sruoch へ行くがグーグルマップで見える道が採石場跡で途絶していて歩いて登る。と普通の車道に出た。急がば回れである。
山上は寺で犬が3匹やたら吠えまくり狂犬病騒ぎのためガイド氏がビビりまくるがそうならここの坊さん全滅してるはずなので大丈夫だろう。砂岩の山上の土の部分にレンガ塔が建てられていたようだが壊れまた仏堂が建っている。
石材などは散見でき仏堂の下階段の脇に集められている。

岩が多いが岩には彫刻などなくやはりメインは真ん中のPhnom Santuk でその東西に今日の最初と最後に寄った山の遺跡があるということだがそのメインの山が肝心のプレアンコール期の遺物が残ってないのは不思議である。

帰りに山の南の道を行くとちゃんと車道の入り口に大きな矢印だけの看板があった。

大概ストゥンセンを通過ないし滞在する旅行者
が飯を食ってるホテルのほうのArnarasの
レストランに入ると運転手氏の友達がいるというので見ると以前2回ほど世話になり稀にプノンペンからシェムリアプの途中で出会う運転手さんがいて挨拶する。彼は知人と一緒にクラチェの遺跡歩いて付いて行ったりとなかなかナイスガイである。というか大抵の運転手氏は親切である。ので本当三月の事件は悔しい。

平成最後の日はこういう感じでしたが昭和最後の日は友達と家でどんちゃん騒ぎしてたのでまだマシだろう。
昭和天皇崩御されて新宿で万歳してたようなゴミが未だに国会議員しているような日本だがこれからどうなることやら。

四月二十九日

昭和も遠くなりにけり。歴史とは過去の積み重ねですね。

コンポンチャム州

竹の橋渡るのまた忘れた。

Prasat Dambang Daek鉄の杖という遺跡を探す。近辺に寺が2箇所ありどっちかだと思い順に行く。最初はダイヤの杖という寺でゴージャス過ぎて違っていた。村人にNokor Vacheyに行けばいいのにと言われておっしゃる通りです。
二件目
Vat Preah Theat Techeh とグーグルで表記される寺。ここも作業中の人に聞いたらないという。こっちは最初に目星つけてて当たりと思っていたので外れたかと思ってウロウロしていたらお坊さんが出てきてその人と話してなんか身振りから説明してるぽいので近づいて聞くと、
確かに遺跡があったがシハヌーク時代に埋めて寺を建てたという。川沿いに近いのもあるのだろう。昔は遺跡など気にする人はいなかったという。
全く痕跡もわからずまあしゃあないかと思ってたらなんと小学校のタマリンドの木に下に遺跡の石材を運んで置いたという。お坊さんといえばイマイチ歴史など詳しくない方が多いがここまで色々教えてくださるのはありがたい限りである。
礼を言って小学校に行くと確かに門扉などの石材が並べてあり、子供がぎゃあぎゃあ遊んでいる。ハローと挨拶しまくってくるのでおはようこんにちはホンダ鈴木ヤマハ味の素と適当に挨拶返して写真撮ると今時珍しく群がってくる。
学校の先生が通りかかるのですいませんと詫びつつ、しょうがないから写真撮るとポーズ取ってカットインしてくる子供を集めて撮影しといた。まあ先生が始業で呼んだらあっという間に引き上げて行ったが。ラテライトの石材もありプレアンコール期のもののようであった。
まあ日本では侵入者として通報されるんでしょうけど学校は不審者対策はちゃんとしてほしいもんです。お前が言うなでしょうけど。

通り道に運転手氏の娘さんの嫁ぎ先があって孫もいるので挨拶によってもらう。
遠くにいる身内は会える機会があれば会うべきでしょう、お孫さんの頭に膿痂疹ができてシェムリアップのこども病院で見てもらったとのことで治りつつはありなんとか安心である。
コーヒーご馳走になった。

Vat Anduong Dei Serei Sokher 通り道なので寄ったが何もなし。

Skun
Srama
Vat Srama 3911
間違えてSkunまで大回りしてしまったがこの際素通りしてた寺に行く。
石材や残欠が少々。

近くにTuol Chhuk Tochもあり尋ねるが寄る年波でChhukがCherlikに見え名前がわからない。食堂で聴いたら知らないと言われて、その先の家で聞くとそこは知ってる人がいて
遺跡があるか聞くと民家の裏にあるがそこの人に許可もらえと言われる。
行くとそこのおじさんと嫁?が案内、というほどもなく家の裏にレンガ塔の基部があるが、この女性がレンガに籾殻が入ってると言っていきなり立てかけてあった熊手で遺跡をなぐって削る。思わずぎゃああと叫んでダメえええと言って止めさすがなんだと思ってんのか。確かに籾殻は入っていたが。
祠堂内部に至ってはゴミ捨て場になってて全くさりげなく未登録のプレアンコール期の遺跡なのに価値がわからないのは残念である。
レンガ塔は南北に3基並んでいて南は丘状に埋もれて壁が見えるが北は家が建っている。
東には池があったようである。
この遺跡から南に石材を集めて祀った丘があるというので歩いていく。
ここが当初の目的地
Tuol Chhuk Toch 3912であった。
ここも若干東北東ー西南西に軸がから向いてレンガ列が地面に並び丘には石材を祀った祠が数年前にできたようだった。名前の由来の通りかつてハスの蕾を持った女神像が出土したとのこと。ここが同定できたのでさっきのレンガ塔は未知の遺跡であろうとわかった。
のでこの祠から国道沿いに出るのでおじさんと別れる時くれぐれも遺跡を壊さないでと伝えてもらった。わかったと言ってたがどだか。

雨季なのにかんかん照りでウロウロしてちょっと危ない。
国道に出て最初に聞いた食堂で休憩焼きそばを食べて4ヶ月前にここで商売始めたばかりで知らなかったと聞いてなるほどと思い、次へと向かう。

Vat Sdueong Chey
ネアクターの蟻塚みたいな土盛りに門扉の柱の残欠のみ。

Kok Trapeang Srok 無人の墓地とアシュラムトラペアンスロックという祈祷所。
SPK様式のリンテルが二つに割れて入り口の石枠の左右に置いてある。壁と思しき石材は長く2.5mくらいの高さがある。リンガも径50cmじゃくある。

Vat Asram Prasat Andaet 環濠のある東西に参道をもつ寺院だが石材と土台のラテライトのみ。

Prasat Kuha Nokor再訪
前回もだったがここは外国人は入場料2ドル取られる。が管理されていて綺麗で会う。ラテライトの寺院で荘厳である。

遺跡見てたら管理人の一人と思しきおじさん、が近辺の遺跡に詳しくなりゆきで

Tuol Preah Theat へ案内してくれることになった。予測していた場所で合っていた。
祠堂の入り口の石材の枠だけが残ったレンガ塔。無人のお堂が建っている。

他の遺跡の場所なども教えてくれるが行く暇はないという。
ただ帰りに近い
Vat Srah Sambour には寄ってくれた。田んぼの中、
ラテライト列の枠を持つ池の西に小高くなって遺跡の上に荒れはてたお堂が作りかけで止まっている。
遺跡自体はレンガとラテライトの土台に痕跡を止める程度で寂しい雰囲気だが池の傍に新しい吹きさらしの仏堂があり地元のおばちゃんたちが寝っ転がってだべっていた。

また来たら他の遺跡も案内してくれるというおじさんと別れたがまた来ることがあるだろうか。
Vat Chrolong
おじさんの話では石が残っていると言ってたがシンハ、10世紀くらいのがi一基のみ。

Vat Kreul 遺跡地図には載っていたが何も見当たらず。ここで車の右後輪がパンクしてたので応急修理。昔別の運転手さんがパンクを輪ゴムを詰めて直したのと同じような、しかしパンク修理専用のゴムを穴に詰めたら空気漏れが止まった。見事なもんである。
日本じゃこれくらいのパンクでもタイヤ交換させられると、値段共々いうとびっくりしてた。
未知の遺跡?と言ったちょっと思わぬ発見もあり寄り道して時間もなくなり明日に予定を持ち越してコンポントムに向かう。
雨季のはずなのにカラカラで夕日が燃えて沈み暑さでか頭が若干痛いのがどうなるか、

本日は早めにコンポントムで夕食を取って同じ魚でもコンポンチャムに比べて小さいなあと思いつついつものゲストハウスに行くと覚えてくれてたのか、こん前と違う部屋でもいいかなど聞かれたりするがついたらスマホタブレットも勝手にワイファイに繋がってて楽ちんである。

四月二十八日

メコン右岸を。
いくつもの店で普通にドリアンが売ってある。
ドリアンが普通に食べられる世界にやっと我々はたどり着いたのである。

クラチェ州
Chambak
Vat Chambak or Stoeng Thom3608
一応CISARK に昔載ってて行ってみた。古そうなものは砂岩の柱の土台くらいで遺跡の痕跡もわからない。
Chrey Ampil
Tuol Chedei
近くまで行って村人に聞いたら予測した地点であっていた。高校の北隣。
墓地になっていたがプレアンコール7、8世紀のレンガ塔の跡のマウンド2基と謎の丸い大穴。
唯一墓の縁石で見つけた装飾のある石。

イメージ 1


Tuol Ta Vong 戻ってもう一つ期待を込めてここについて聞くがないという。
Tuol Ta Ong はあるというので行ってみた。
砂岩の転がる岩山の斜面のこれも墓地で山をさまようが何もなかった。べつの場所か?

次の遺跡?との位置関係を見るに遺跡地図がちょっとずれているのか?

Phnom Soporkalay IK140.03

歩道の階段は閉鎖。車で山上の寺へ。しかし何もない。
村人が家族で昼ごはんのご馳走食べていて誘われるが弁当持ってきてるので謝絶するがありがたいことである。
眺めは良いが何もない。お坊さんに遺跡について聞くとPhnom Chrei なんとかという山に土台だけ残っているといいVat Chambak で聞けば良いというので戻る。ここで寺で聞けば良かったのかもしれないが通りすがりのおじさんに聞くとないと言う。
とりあえず山はわかって道もあるので行ってみるが砂岩の転がる岩山でちょっとわからない。

が山中に新しいストゥパがありその近くの家に人がいてガイド氏が聞き取る。
遺跡はないが古いストゥパならある。が、わかりにくい。大きな菩提樹の木の下にあると言うが家の人も通りすがりの兄ちゃんも忙しいので案内ができないと言う。菩提樹があるのならとそれを目印に自力で探してみることに。
道を行くと山を回り込み最前の山の寺も見える。大きくなり小さな菩提寺は畑の中に見える。1回通り過ぎて分からないのでそこの菩提樹のところにも行ってみる。しかしみたところ何もないので一旦村のほうに戻る。戻るころから砂塵吹き上げる強風が強まり風景が霞んで見えなくなる。がさっきのTuol Ta Ong に出て結局狭い範囲をウロウロしてるだけではある。村に入り道端で人が何人かいたのでそのストゥーパについて尋ねるとおじさんがしってて案内してくれると言う。行ってみたら先ほどの小さな菩提樹の、そのさらに奥の池の横に古いというほどでもなく仏暦2507年のコンクリとガラス窓の仏塔があった。大風でそそくさと引き上げTuol Ta Ong に遺跡はないのかおじさんに聞くとないという。しかし自分の妹があそこの西にでるというおばけを見た写真も撮ったなどという。椰子の木くらいの背丈の人の姿してたという。カンボジア版八尺様かと思うがもっと大型のようだ。そういや昔Angkor Chum でおばけ話聞いた時も風が強かったなあと思い出す。
村に戻ろうとするとその強風のせいで倒木が何本も道に倒れている。といっても細い木ではあるが。おじさんを送Vat ChambakChambakで弁当食べるが風強い。
1箇所以外は遺跡は分からずじまいだがまあメコンに風景を見るだけでも旅情は満喫できるものである。

コンポンチャム州
去年見た中国が又メコンにかけてる橋は完成してない。

Stowng Trangに戻り近郊のプランテーション沿いの露店でドリアンを買う。しかし去年ここらで買って美味だった黄色い身のランプータンは今年は撮れてないという。異常気候のせいなのか。後で聞いた話では茘枝にせよランプータンにせよ2、3年に一度しか結果しないらしい。

Han Chey
完全復活して寄ったか忘れたので
Kok Preah Theat
風はないが小雨が残り雨の中再訪。

山を登ってレンガ塔と砂岩のアシュラムも再訪。アシュラムは本当に精緻な彫刻で何回見ても良い。

Prasat Kok Lvea 地元の人はLveaはつけない。
ハンチェイと同時期の遺跡の石材を10世紀に適当に再利用したため碑文が門扉の天に、しかも切断されてるのに今回気づき遺憾である。
碑文見てたら地元の子供が一部タバコくわえてやってきて碑文をのぞいたりする。横のマンゴーの木の実を登ったり棒切れ投げて落としたりしtしている。やっと当てて取れたのを見て去る。
日曜だがちょっと降った雨と仏日でもなくなったせいか川岸は閑散としていて灯台も電飾は消えて絆橋のライトアップだけが光っているが
竹の橋は街灯がついてるようで明るい。
明日の予定何も考えてないと思いつつ寝てしまった。

4月27日

今回もやや風邪気味ですがやってきました。羽田の国内ー国際線乗り継ぎの移動に航空券とパスポートがあればモノレール、京急ともただで移動できるとか田舎者にもわかりやすく掲示して欲しいもんですがモノレール利用したらすし詰めのシャトルバスより楽ですね。もう少し宣伝してほしいもんです。

地元から荷物カンボジアに行くようになって便利ですが、もらった封筒に書いてあったのに気づかず荷物の引き継ぎの連絡もしなかったけど無事シェムリアプに着いてて一安心。それより今回は3年のマルチビザを取りました。2月は日本人限定措置らしかったけど今もでしょうかね。
シェムリアプではプノンペンみたいにモニターで宣伝もしてなかったのでダメ元でアプリケーションで申し出たらお前は3年も観光するのかと言われたものの、日本人マルチビザ3年、と壊れた機械のように繰り返してたらちゃんとあるから金出せと。80ドルなので年一回行ったら割安になりますね。
なんかこのマルチビザの偉大なところはお前は何回もカンボジアに来るのか?と聞かれて
プロピークニョムチョールチェットカンプチアと言えばビザの係官も通関の係官もニッコニコでフレンドリーに話してくれると言うところでしょうね。
それはともかく雨季の始まりというのにカラカラで40度近い天候で去年の涼しさが懐かしくなりつついつものガイド氏、運転手氏、旅行会社のS氏と合流してsim カード買って移動。
3月の日本人によるカンボジアの運転手強殺事件の影響などきいて本当に許しがたいですが、
原理の日本人のみなさんは23日に朝日の記事で上がってたように、きちんと襟を正してカンボジアの人たちの信頼を損ねぬ行動されているようでした。
他にも書きたいことはありますが帰国後にします。

コンポントム州
Stoun 川に沿って。
Banteay Stoun、の南の遺構
雨が降らないつまりまだ田んぼや川沿いの遺跡に行きやすいてことで2月のやり残しのここへ。
農道を北上して途中にお堂が出来ててその北のマウンドに台座と、地面にレンガ列。
未知の遺跡だが,悗療喘罎覆里琶顕酋匹盖い鼎い討涜羣汰瓦討縫淵鵐丱螢鵐阿靴討△辰拭コンポントム州はしっかり管理してる。

Banteay Stoun この二つの遺跡は200m弱離れてともに東に向いててその東に川Stoung Stoun が流れている。
ここのレンガ塔自体はコンクリで固められて適当に建て直されたものでしかないがプレアンコールvから10世紀まで、獅子、連子窓。1976年ポルポト時代の記憶。

Vat Kompong Preah Trei Serei Thnu Kokorもしくは Banteay Stoun
川沿いに遺跡が並ぶと言うことで1、2の南東の、東へと曲がった川沿いの寺も何かあると思い行ってみたら、台座が数個あり、獅子も一点。さらに本堂内部にはバイヨン後期からポストバイヨンの仏像を彫った石柱が並んでいた。寺も遺跡に上に建てられたようだ。 しかしここのこれだけの遺物に関わらず、文化局は記録してないようである。

Vat Ponlea Chey ここはIK197.01だが遺跡の構造の上に寺が建てられているほかに特には遺物は見つけられなかった。

Vat Stein Tuolここは何も見つけられず1950年代に建てられた寺の本堂を修理工事中であった。
まだ遺跡はあるがふらっと寄っただけだし先に行かなければならないのでまた帰路に。

昼飯の時間をちょっと過ぎたがあまり食堂がないまま州都ストゥンセンまで来たので前回行ってみようと思ってたArunrasゲストハウスの食堂に行ってみた。流石に昼過ぎで並んでたおかず類は売り切れていたがハリネズミ魚とか言うのの卵のキッシュ他注文料理があるので食べる。
6号線沿いで昔からあるゲストハウスで値段もドル表記だがまあこんなもんであろう。

またコンポンチャムへと進む。
今回はやたら救急車が走り回って出くわす。
救急車が増えたのと車の事故が増えたのといろいろあるのだろうが。
そういえば最近狂犬病で亡くなった人が出てみんなワクチン接種したがりワクチンが高騰してるとのことで、犬、猫猿コウモリの接触は避けたほうが安全であろう。噛みつかれるほど接触日本の医療機関で事前にワクチン接種したほうがいいのかもしれない。

コンポンチャム州
最近分裂してトボンクモム州と二つに分かれた。去年クラチェへの途中、原野に突如現れた舗装の大通りと謎のビルは州の役所群だったらしい。今回はそっち行かないのでどうなってるのか見れないが。
Vihear Thom
Vat Anduong Svay の横の丘の石積みと遺跡
まあもしかして、と言う程度のつもりで2月にラタナキリで見た石積みの古代墓地まんまの石積みかと確認に来たわけだが、大きさがまちまちで、何より岩を割って積んであり新しい。
周りは岩を掘った穴もある。村びとに聞くと売るために掘って積んでるだけとのことでそう歴史的発見が転がってるものでもない。
のだが。
この丘の天辺にある謎の小屋は村人にとっても謎の小屋でどこからか人が来て豚の頭などを供物にして祈ったりしてたという、怪しさ満点のカルト設備だったらしいが今は祈る人もおらず放置されていて、その小屋自体は遺跡の上に建っていることはわかった。所在不明になった遺跡Vihear Thom ではなさそうだが未知の遺跡ではある。
Neak Ta Ong Mungを探しに西の湖の近くの寺の横まで来たがそんなのはないと言う。
寺の周壁のところに大岩があると壁によじ登っておばちゃんがそこだと教えてくれるが一緒によじ登ってみたがただのラテライトの岩にしか見えない。
別によじ登らなくても普通に寺に入って見てみたがやはり岩だった。

何もないので西の湖で夕照の光景でも眺めるかねえと行ってもらう。
ガイド氏がTonle 大河や湖の意味であるが、そっちへいくと言ったら運転手氏がいやトンレじゃないBoeng Thom 大池だ、と言う。
衝撃的なことにポルポト時代まさにお祖父さんだけと、ここに来て魚をとらされていたと言うのだ。波が高かった、と言うほかはあまり話も出ないので色々聞くのもアレかと思い魚たくさん取れたので食べるのは困らなかったと言うのが聞けた話一つであった。
美しい湖畔ー確かに風が強くなりお陰で涼しくなったが、波が風で立っていて夕日がきらめく、その中で漁舟で作業する漁夫のおじさんに魚やおびただしく積もる貝殻の話など聞いたりして、一見この無垢なように見える光景のこの場所にもポルポト時代の人々の苦難が地層のごとく重ねられている事に慄然となる。
運転手氏は何を思うかちらっと見たらスマホで光景を写してたりしてたが色々思うことはあるだろう。
しかし帰り際に一言笑って「アノサウリー」
思い出、とのみ言うのが沁みる。

コンポンチャムの川岸は週末で仏日というのもあるのかないのか祭りのように賑やかで2月に泊まったホテルはタイからのハーレーダヴィットソンのツーリング軍団おじさんたちに占拠されて高い部屋しかないと言う。タイからバイクで旅行とか羨ましい限りだが。高いけどここはホテルのフロントにもドリアンが売ってるという素晴らしいパラダイスであるので投宿する。
あちこち探して結局近くのカンボジアレストランで犬の舌というガイド氏の話では小さな薄い魚のはずがシェムリアプではありえない大きさとガイド氏が驚く程度には大きいらしいカレイに似た黄色い身魚の唐揚げなど食べてると身なりは小綺麗なおねえちゃんが二人物乞いにへばりつく。500リエルくれというが。しばらくしたら諦めてとなりのレストランに移動して行ったが一見普通の若い女の子見たいのが物乞いしてるのはそれはそれで驚きである。仏日だからと言うのもあるのかもしれないが。
川沿いで観光地値段という事でやや高めで、これならわたくしは好きだがガイド氏にはあっさりし過ぎて不評の名店ハオアンでいいかなあと思う。
値段が高いので安いところに泊まる二人と別れて川沿いを散策してもいいところだがこういうところが年取ったと思う事に賑わいが面倒なのと洗濯しなくてはというので早々にホテルに戻りドリアン買うか悩み明日もっといいの買えるじゃんと自重し部屋に戻って、さすがに広くて、部屋からのキズナ橋やかつて恐怖で途中で登るの諦めた灯台が電飾でデコられて光ってるのとか眺めが良いが結構痛みも激しい浴槽で洗濯などしてこれを書いておりました。

年年歳歳

連休明けからヤフーブログの引っ越し作業が開始されるようですけど、
とりあえず記事はFc2に避難させてますので、そこからどこでも移動できる体制にはなっております。
ブログのHPのデータ自体も保存は終わりました。
残してどうするもんでもないですが。

画像が小さくなってるのが残念ですがもともとピンボケだらけでいい絵はないのでまあしょうがないでしょう。


この4月でいろいろあった平成時代も終わりになり、令和となってどうなるのか、いい時代になればよいですが。

本当なら日本で心静かに歴史の移り変わりを感じるのも一興でしょうが、せっかくの10連休ですので
また今晩よりカンボジアにちょっと行ってきます。

とはいえ暑そうですし雨季も始まっているようなので今回は本当にお手頃な旅程でゆっくりして来ようと思います。
それと非公開にしてましたが、3月の日本人によるカンボジアのドライバー殺害事件は本当に憤りを覚えますが、それでも日本に好意的なカンボジアの人々を日本人としてがっかりさせないように行動したいと思います。こういうことなどわざわざ書くまでもなく当たり前のことでしかないんですけどね。


メコン右岸のクラチェの遺構、まああまり目立つものではないですが、などみて、あとは2月のおさらいみたいな感じです。コンポンチャムでみた石積みのマウンド群がラタナキリのそれ同様、古代の墓地なのか手掛かりをつかめたらいいかなと思います。

この1,2年いろいろありましたが、カンボジア関係ではC.Jaques氏やM.Vichery氏といった学者さんが2017年に亡くなり、多少世話になったIKTTの森本さんも亡くなられ、と歳歳年年人同じからず、世の無常を覚えますが、とうとうCISARKさんも消滅してしまったようで、それに代わるような遺跡のデータベース構築の動きもないようです。ただ西欧の歴史学者がなくなられる一方で、カンボジアの研究者が続々と出てきているのは頼もしい限りです。まあ仏教と政治でバイアスがかかってしまう嫌いはありますが。

わたくしが訪れた遺跡は全遺跡のうちの5%弱でしょうけど、ヤフーブログもなくなりデータは保存しましたが、ブログ形式で書くのも散文的に過ぎるのでやはり私的なものでしかないですがwiki形式でまとめようかなと思っております。まあ風呂敷だけ広げて中身を入れないいつものパターンになると思いますが。

500か所くらいでもまとめられたらまあ体裁は整うのではなかろうかと思いますが、もはや形骸化したCIASARKナンバーは採用しないほうがよさそうですね。

まあ旅行しながら思案しようと思いますが。

とりあえずFC2にも転写はしますが、今回の旅の記録まではこっちで書いて行くことにしました。
帰国してFC2、もしくは移転先で続けようと思いますが。