カンボジアの歴史探訪 2

つかいにくいのでFC2にて活動しますわ。

2019年雨季の筈の旅 3じゃなくて4でした  Isanapura2

5月2日

Sambor Prei Kuk
1.M.043 Changat Sampov
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船の舵という名の石材が出土。遺跡内にも案内の看板がある。
後ろで野宿しているのが、遺跡警備のため派遣されてきているシェムリアプ州警察のみなさん。
こっちの方が衝撃的である。

2.M.042 Prasat Kong Veang?早稲田の座標はここだが発見できず。
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3.M.041 Prasat Kok Treang
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ここはグーグルマップでも見れる。

4.Prasat Trapeang Ropeak Z1-5
中央祠堂の四隅を八角祠堂が囲んでいたようだが北西以外崩壊している。
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5.Prasat Y
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ここなんかの、あまりカンボジア関係ない映画かCMか何かで一瞬出ていたような。


6.M.038 C8-3GPS採れておらず。下田論文ではN12°51'58.2” E105°2'13.1”
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7,M.037 C8-2
イメージ 7

8.Prasat Tao
1645 IK.162.01 M.026
C1,C10-13,C14-1~2,C15-1~2,C16-1~2,C17-1~2,C18-1~6,C19-1~4,C20-1~4
C1
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9.M.032-036 C2-6
5基のレンガ塔が南北に直列していて、クリアリングもしてあるのですぐわかる。大半壊れている。
ひとまとまりの寺院だったのだろうと思われる。
まとめて」CISARK 3511
C-2 M.032
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C-3 M.033
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C-4 M.034
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C-5 M.035
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C-6 M.036
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10.M.022 N.22 Prasat Sreng Treach 3516
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11.Prasat Sambour の外周壁の門の前に未完成のリンテル。
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および、
その東のネアクターの祠グーグルマップが2013年のもので、その当時はなかった模様。
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12.C6-3?なんかおかしいと思って帰国後見直したら、まったく違う場所だった。

謎なことに、唐突に道しるべの立派な標識が立っているのはいいが
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道側じゃなく、藪に向かって案内の文字が向いて立っているのは謎である。

雨季は水没するような水牛ののたうち場だった。
本当のC6は
このあたりと全く違っていた。来年の宿題である。

Prasat Robang Romeas group
入口の看板がわかりやすいので

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ここも15年ぶりに来たが、整備されてきれいになっていた。
それでも徒歩で回るので人はいなかった。ここはサンボープレイクック遺跡群とはいえ
10世紀の拠点のようでリンテルの再利用はあるものの、レンガ塔自体はラージェンドラヴァルマン2世王時代のものである。

13.Prasat Serei Krup Leak1736 M.051 IK.165.04
貞淑で完璧な奥様とでもいう名か。けっこうよそにも同じ名の遺跡はあるようだ。
碑文K.151?碑文は字体から行ってサンボープレイクックの時代のもののようだ。つまりこの碑文がある南祠堂も前室に碑文があるというイレギュラーからして再建された10世紀のものか?

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14.Prasat Robang Romeas0203 M.052 IK.165.03
アンコール遺跡に影響されてかKroal Romeasて名前になりつつあるが本来はRobang Romeas
である。サイを囲む壁という感じでは同じような意味に近いが。
碑文K.150,152.153で場所をここの遺跡群で混同しているかもしれない。が、これらの碑文は10世紀のものである。

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ピンボケがひどい。

15.Prasat Neang Preah 7565 M.053 IKなし

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ここだけ一基のみ。それゆえお姫様という名なのか?

133か所すべてを回るのはいつになるやら。まわる必要性があるのかも含めて考えないといけない。


参考文献:
1.参考文献:下田一太 クメール古代都市イーシャナプラの研究、2010 早稲田大学 学位論文
製本版の巻末の図録および
NII早稲田大学リポジトリで公開されているPDF版本文、PP57-58に計133か所の遺構のリストがある。

2.地球の歩き方編集室 「地球の歩き方 アンコールワットカンボジア 2018-2019年版」
3.Bruguier,B et Lacroix,J."Sambor Prei Kuk et le bassin du Tonlé Sap"Guide archéologique du Cambodge TomeⅡ. Les editions du Patrimoine 2011
4."Carte Archéologique du Cambodge GROUP DU SAMBOR PREI KUK",カンボジア芸術文化省、EFEO,2007,

2019年雨季の筈の旅 3 Isanapura

5月1日
令和の始まりにSambor Prei Kuk クメール文明の始まりの地で過ごす。

Isanapura
1.Prasat Phnom Bandel
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人跡に乏しく藪が多く、聖域後列中央辺りに建築物の基礎部分と思しきレンガ列を見た程度。レンガやラテライトは散乱しているが全体的な構造はわからず。位置的にはイシャーナプラ西側の重要な位置にあるのだが。

2.M.107
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1.の環濠が干上がっていたのと、北西や西に参道かあぜ道があり西に回り込めたので行ったが、もちろんマウンドでしかないのでラテライトとレンガがあるのみ。

3.Tuol
ここは1.の南で遺跡地図でもTupl、丘としか記されていない。早稲田もナンバリングしていない。
特に遺物は見いだせず。
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4.M.106
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5.に行く車道から見える。マウンドでレンガとラテライトの集積。

5.Knach Tol
東向きの寺院で、前列2+1基、ラテライトとレンガ?
後列4基のレンガ塔が崩壊して並んでいる。
北に敷地が凸型に出ており、南はよくわからない。
その北に、八角祠堂が崩壊して壁の半ばが残っている。ここでは八角祠堂は一基のみしかわからない。

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6.Knach Tol Khnang Lech
早稲田では無名と記されているが、遺跡地図では5.と同名の西の遺跡、とされている。
こちらは南北に直列した5基のレンガ塔で、4番目と思しき中央祠堂(よって5基以上並んでいた可能性もある)は、かなり大きかったようで、Prasat Yeay Pounの主祠堂くらいの縦横、よって高さも、あったのかもしれないが、基礎部分のみしか残っていない。
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写真ではわからない。
7.M.105
車道を西に渡る。遺跡らしい丘状の地形にラテライトとレンガがあるがわずかのみ。
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いかに木が生えてるとはいえ、雨季なのにカラカラで温度も40度超えそうな勢いで、この中を残りの
イシャーナプラ王城内の田畑をうろつくのはヤバそうなのでこれくらいで切り上げた。また来年にしておこう。

Prasat Sambour ここからはグーグルマップ、ストリートビューでも見れるような遺跡なので
あまり画像上げる意味はないかもしれない。

ただここらへんの外周壁見ると、2月にちらっと書いた、
ラテライトをレンガ大の大きさにして積み上げたもので、寺院はともかく、周壁としてはありふれたものでした。他に基礎部分をレンガ大の大きさのラテライトで積み上げた遺構もありました。これは下田論文の画像でも見てましたので想定内でしたが。
つまりかなりの量、レンガ大のラテライトが作られていたということで、サンボ―ではこれ自体はありふれていたとして、それを用いてPrasat Phnea Snachを建てた意図がどこにあるのかでしょうね。

8.Prasat Sambour group
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一般的なサンボ―プレイクックの北遺跡群でPrasat Samborと言われる聖域。N9祠堂に復元された、ひどい写真だが、東洋のミロのビーナスことドゥルガー像。本家はもちろんプノンペン国立博物館にある。

9.N.17 Asram Maha Russei
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ここももともとはプノムダと同じAsram Maha Russeiというのだが、どんどん名前が安易に変わって行っているようだ。砂岩の壁には砲弾と弾痕が残っていて北西角は砲撃で破損している。画像は南壁である。
2つ以上の歴史の証人である。Hanchey,Prasat Trapeang Kuk(Preah Vihear),ほかにどこかあったか知らないけど3基を比較してみたいもんです。


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ここも昔は鬱蒼としていてたが、見やすくはなっている。

11.N.15 Prasat Daum Chan N16-1,2 碑文あり。
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あえて遠景の画像使っているが、よく見れば南北に、マウンド、祠堂、マウンドと並んでいて、それにNのナンバリングがされているが、どうしてこういう割り振りしたのか今のところ調べてないのでわからない。

12.N19
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13.N.20 Prasat Kbal Chroukここも碑文がある。
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14.N.21 Prasat Sandan
イメージ 14
ここらへんはグーグルマップで(ry

15.N.31 Prasat Bos Romeas
グーグルマップででここと17とが混同されていたので訂正してもらったがその手前行くことに。
前来たことはない。
南北、若干軸が時計回りに傾いているが、6基のレンガ塔が直列していたようだが、全て崩壊している。
画像は北から2番目辺りから南を見ている。天候が曇り始めている。
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16.N31-1?
N31-1~2とあるようだが、一基のレンガ塔の跡と、石材くらいしか見つけられず。森の中というのはしょうがないがゴミが捨てられていて度し難い。
画像が1なのか2なのかは未確定。
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17.N.24 Prasat Rong Chambak
実際14の入り口から先は車も入れず歩くしかないようだが、全く人気がないので静かである。
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ここまできてこの辺は全く未見だったようだと気づく。
元来た道を帰ってたらまた少々の雷雨であるが、涼しくならない。

18.M.027 C7group
真も後半特にピンボケだらけでどうしたものかと思うが
あと一か所、車道沿いに帰り寄る。
グーグルのストリートビューじゃ見えないが、今は整備されたのか車道から見つけられた。

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東、つまり中央の遺跡群のほうから3基、ないし4基南北に直列する祠堂、
一基のみかろうじて姿を残すその様を見ている。
長くなったのでここまでで一旦終わります。

2019年雨季の筈の旅 2

地名が抜けてたので追加
4月29日

Kompong CHam州

Dambang Daek(鉄の杖 村)
‌遺跡の跡候補と思われる寺が二つ。たぶん2番目だろうと思うが1番目の
名前自信ないが
Vat Audom Ratana Danbang Pech 最高の宝であるダイヤモンドの杖 寺
へ行く。
しかしわたくしがなくしたのは鉄の杖でダイヤモンドの杖じゃございません。
ということで次に。

1.Vat Preah Theat Techeh ちょっとしか離れていないのに今度は「地味な仏舎利の寺」と一気に謙虚である。
寺のお坊さんのお話でここが
Prasat Dambang Daekであったとわかった。

日誌にも記したが、シハヌーク時代にこの寺院を建てるため遺跡を埋めて土を盛ったので何もわからなくなった、とのこと。昔は遺跡なんて気にしなかったとも言われてた。
全く痕跡を見いだせずにいたが、さらに近くの小学校に石材を運んだことも教えて下さる。
ありがたいことである。


2.Hun Sen Dambang Daek Primary Schoolグーグルマップのストリートビューで校舎の前のタマリンドの木の下を見れば石材が集めて置いてあるのが見える。
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村を離れて7号線ぞいを西進す。
Krala
3.Vat Anduong Dei Serei Sokher
遺跡地図には載っているが何も見つけられなかった。唯一ネアクターの祠でなんかの像の残欠。一応砂岩だが。

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Skun
Srama
4.Vat Srama 3911
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そこそこ台座や石材が残っていた。

5.Prasat Unnamed
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小説で出てくる銃は発砲されてしまうように、遺跡に立てかけられてる熊手は遺跡を破壊する。
本当勘弁してほしい。6号線からすぐだが、CISARK(画像全滅してますね・・・)もデータ消えたのかもともとないのか載っておらず、4,6の遺跡とも近いのに遺跡地図にも載っていない。しかし白い日干しレンガの、よってもみ殻が混じっていると村人のおばちゃんがレンガを破損して見せたのだが、プレアンコールの、3基のレンガ塔の跡である。写真は中央祠堂で、北は人家が上に建っていて、南は埋もれて塚のようになりいつもの盗掘穴が開いている。前面=東に池もある。2つか?

6.Tuol Chhuk Toch 3912
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5.の無名のレンガ遺跡の村人が案内してくれた。200mくらいしか離れていない。こっちは数年前にコンクリートで新しい祠を作って石材や台座などを祀っている。地面にはレンガ列も見て取れ、ここもまたプレアンコール期の遺跡のマウンドの上であるのは明白である。名前は小さな蓮の花の丘という意味で、
これは村人のおじさんに教えてもらって助かったが、昔蓮の花を持った小さな女神像が出土したためとのことでヴィシュヌ教でラクシュミーだろうか?
どっちにしろただの村人のおじさんでも知ってるほど、近隣では有名で、参りに来た人もいた。

このChhukをスマホいじりだしてあっという間に老眼になった碑文脳のわたくしがCharlikと見間違えなければたぶん、あっという間にたどり着けていたと思うが、その分5.は見つけられなかっただろう。
Sduong Chey
7.Vat Sdoung Chey
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唯一ネアクターとなった蟻塚の祠に、石柱の残欠が一つのみ。

8.Kok Trapeang Srok Asram Trapeang Srokとも。
墓地になっており寺ではなくアシュラムで無人。一応遺跡の祠堂の、入り口の石枠のみ残る。が、サンボ―プレイクック様式のリンテルがその石枠の両側に、二つに割れて置かれている。壁の一部と思しき砂岩の石材は高く2.5mくらいある。
行くところ行くところ今回CISARKも参照できず、予備知識なしだがプレアンコール期の遺跡に出くわしてばかりで驚く。地域的には当然ということだろうけど。


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Kompong Thom州に入る。
Pongro
9.Prasat Kuha Nokor0182 IK.147 再訪 KukではなくKuhaが正しい。意味が全く違う。Sambor Prei Kukも昔はKuhaと呼ばれていたとのこと。Kuhaなら偉大なとか大きなmahaに近いらしいが、Kukでは刑務所にしかならない。
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主祠堂前室から祠堂へ。両側の柱や破れた屋根から差し込む光と影のコントラストがなんとも厳かであるが、写真が残念である。ここは昔来たときも、雨の中、5時過ぎてお寺で読経が始まった時、南経蔵の壁に近づくと壁から読経が反響してこれまた厳かな気分になった思い出がある。
外人は入場料2ドルです。前回もそうだが遺跡の掃除や内部の植物の手入れなどされているようで、大事にされている遺跡であるのでそれくらいは払ってもよいと思う。
前回はご老人が坐像の神像のイラストのコピーをくれてスーリヤヴァルマン1世時代のもので、盗難されたので行方を知らないかと聞かれたりしたが…。
今回は、なんだかガイド氏と話していた9.の遺跡の管理人の一人が周りの遺跡を案内してくれる話になってた。いくつもあるのでこの近くの1,2か所くらいは行きたいと思っていたが。
Chrolong
10.Tuol Preah Theat この近辺では一番離れているのでもう少し近場の遺跡をいくつか行きたかったのだがまあ行った甲斐はあった。遺跡地図ではこの名前で載ってるがCISARKには消えてるのか見当たらず、位置の説明からするとKuk Baraeng Chasと登録されている遺跡に当たりそうだがどうなのか?案内してくれた人は、地図通りTuol Preah Theatと呼んでいた。

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東側の参道だったところも含め墓地と化している。建設途中で放棄された荒れた感じの仏堂の後ろに、ここも祠堂入り口の石枠が残り、レンガが散乱している。ここも大き目の祠堂だったのか、8と同じく壁らしき石材が8と同じ位、2.5mほどある。
ということであとは時代を推測させるのはレンガの大きさくらいだが、ここもまた8と同じくプレアンコール前期の遺跡であろう。
Pongroに戻る。
11.Vat Srah Sambour
Prasat Khnar(Toch=小と言ってたので大=Thomもあるのか?)とかTuol Po Nipeanといった遺跡の方角を教えてくれるが行く時間はないというので帰りにまあ近いここへ寄ってもらう。とはいえここも位置は推定通りの場所だった。
寺、とあるがここも荒れた仏堂が放置されていて南側に吹きさらしのお堂ができていておばちゃんたちの憩いの場になっていたが。
遺跡の前は広く東には画像のように、きちんとラテライトで縁取られた池があり、これが名前の由来だろう。その東にも二つ池があったようだが。遺跡でもあるが生活の場でもあったということだろう。
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遺跡自体はその荒れた仏堂の下だったようでレンガの散乱とラテライトの基壇の石材、そしてこの池のラテライトの囲いが見れる。
またChrolongに北上。
12.Vat Chrolong
案内してくれた人を9まで送り、次来たらまた案内してくれると言われるが、12年ぶりに来たわたくしが次来るのはいつになるやら。別れて北上。
この寺にも石が残っているとのことだったが、
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このシンハ、獅子しか見つけられなかった。鬣(たてがみ)から見てアンコール期だが破損していていつの様式とまで言い難い。
Kreul
13.Vat KreulIK184.04
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ここも遺跡地図に載ってはいるが、何も見つけ出せなかった。ただ周りにまだ遺跡はあるようである。

4月30日
Kompong Thom
本来なら今日からサンボ―プレイクックの予定だったが、昨日のやり残しでまた6号線を南下していく。

Phnom Santuk
1.Phnom Srah Khcau
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ここはPhnom Santukの東の山だがSPK様式と10世紀のリンテルがあり、ここでもまたSPK様式の寺院をラージェンドラヴァルマン2世王が手入れしているという奇縁。さらに東参道にはリンガ様の両側の石柱、結界なのだろうが、それが短い距離だが並んでいたようで倒れている。

Baray
まで下り周辺の遺跡を巡る。
1.Tuol Vat Angkor Tung Knong
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田んぼの中にぽつんと島のようにある仏堂。ここはグーグルマップにも載っている。
北東角に石材など集められている。

2.Vat Tuol
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石材ひとつとラテライトひとつくらいしかみつけられず。

3.Vat Prasat
石が少々と、台座が二つあったが境内の露店のクーラーボックスの置台になっていたのは哀れを誘う。
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4.Vat Chatluk
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この石材のみ。また群がってきた小学生の男の子からもらった木の芽と花を乗せてるがなんなのかはわからない。男から花もらうのは人生初かもしれぬ。

5.Vat Banak
ここは何も見つけられなかった。遺跡地図には載っている。

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6.Vat Baray
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ここもまたサンボープレイクック様式のリンテルの残欠、それと10世紀の石材が混在していた。

7.Tuol Ta Pich
遺跡地図に載っているが、グーグルマップで地元の人が登録していて、行ってみた。墓地になりつつあり遺跡が破壊されるのが心配である。東西の参道と環濠を持つ遺跡でアンコール期であるが、基礎部分と、祠堂入り口の石枠が残るが、レンガや石材は結構多い。なによりリンテルが完全なのが一基、不完全ながら彫刻がはっきりしているのが一基残っている。時代は10世紀後半のものであろう。
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また東に大小の池があり、それと環濠北西角あたりで陶片を見出した。このあたりからまた風が強まり曇りだし、雷鳴が聞こえだす。

8.Tuol Yeay Serei ここも7.の人が登録したようだが遺跡地図、あまり役に立たないがCISARKのデータにもないのか消えたのか見当たらない。

雷鳴の中畑を横切るが、その畑の中に多数の陶片が落ちており、じっくり見たいが雷が近づいてくる。
西の畑で作業していたおばちゃん二人が逃げていく。

遺跡は環濠、そしてラテライトの外周壁を持ちこちらは東のみの参道で、参道に回り込んではいる。建造物は何も残っていないが、経蔵南北に3祠堂の5基があったようだ。
主祠堂の上に小屋が建っていてここもなんかのカルトか?
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落ちているいくつもの石材の装飾は10世紀でも後半の、バンテアイスレイ様式からクレアン様式で、素朴ながらもとても美しい。風が強く涼しいのはよいが、少し雨がぱらつき、雷鳴が東から頭上に移動してきて遺跡内の低い木の下に潜り込みながら見て回る。雷鳴は天上を覆うが雷光は東から南へと移動していった。一安心だが我ながら愚かで危ないとしか言えない。

が、雷が遠ざかったのなら畑で陶片を見れる。宋の、薄手で、やや青みがかった釉薬だまりが美しく、時代を経てるとは思えない上質の白磁陶片、合子の蓋の一部、遺跡同様10世紀以降の、まだ黒釉ではないアンコール期の陶片や土器片など多数で、陶片が高級品揃いでそれなりに高位の人がここで生活していたのか?碑文で出てくるような僕奴は土器や、木の器や葉を使っていただろう。

Chong Duong
9.Vat Po Pech (Thmei )or Vat Kdei Thlok
同名の、Po Pech Chas(古い方)というお寺の北である。ここもサンボ―プレイクック様式の小さなリンテルが、10~11世紀のナーガの屋根飾りとともに飾られている。
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それだけでなく本堂の下、西側のスペースに台座や石柱の残欠、もしかしたらトルソーのような太い石
が保管されていた。

再び帰りにSantuk
10.Phnom Sruoch
平成最後の日の平成最後の遺跡はPhnom Santukの西の山の遺跡で、まんなかのPhnom Santukは飛ばして東西両側を上ることで終わりとした。


集められた石材くらいしかまともに撮れてないが。
イメージ 23

夕暮れで写真がピンボケしまくっていて情けない。

Phnom Sruoch,Phnom Santuk,Phnom Srah Kchauと、東西に並んでいる山、しかも真ん中が一番高い。じれを三位一体に見立てるなら、この山々がサンボ―プレイクックのリンガパルヴァッタなのか、それとも下田論文に書いてあるのに気づかなかったが、昨年訪れたPhnom Bariengがそうなのか、どっちかなのだろうか。trimurtiとしてはPhnom Santukのほうが整合性がありそうに思えるが。

その肝心のPhnom Santukにその時代の遺物が見当たらないのがネックである。

2019年雨季の筈の旅 1

※ リンクのグーグルマップの位置が間違えて張り付けていましたので訂正しております。
失礼いたしました。

帰ってきたらCISARKさん復活してますね。画像が表示されませんが。

またいろいろ消えてるんでしょうけど。というわけでわかる範囲でCISARK No.も入れておきましょう。
今回回った遺跡について画像と場所つきであげておきます。

4月27日
Kompong Thom 州
Stoung

1.Banteay Stoungの南の遺跡2.に行く途中にある。石材や台座が結構ある。
イメージ 1

またさらに南のTuol 丘には陶片少々 農道にも少し落ちている。
2.Banteay Stoungストリートビューでも見れるようになっていて、レンガ塔自体は後世に作られたものでポストアンコールであろう。しかし台座や壊れた獅子も落ちているがプレアンコールから10世紀ほどの時代の幅はある。あとで思えばこのレンガ塔における、プレアンコール初期と10世紀のリコンストラクションが今回の旅のテーマになって行った。
イメージ 2



ここは遺跡地図にも載ってなかったが川沿いだし何かないかとついでに寄ってみてびっくりした。
ここの石材は登録されていないようで2は当然として、通り道ということもあってか1.のマウンドのほうですら全部石材にナンバリングがしてあったのに不思議である。
イメージ 3

1,2に引き続き、Stoung川沿いに遺跡が点在、今のところ左岸に3か所密集と言っていいか。集積地か河川交通の拠点かなにかあったのだろう。台座の時代は2とほぼ一緒。
獅子はもう少し下がるか?
ここはバイヨン末期からポストバイヨンの石塔も本堂内に数点保管されていて、そのころから仏教寺院としても、あったのだろう。
イメージ 4

遺跡としての重要度は2と同等以上の意味があるが遺物にナンバリングされてないのが不思議である。

4.Vat Ponlea Chey 0111 IK197.01
PLAN以外遺跡の痕跡に乏しく、ネアクターにも石材の残欠が。小さすぎてよくわからない部分。
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しかしここも1,2,3の下流川の左岸である。この遺跡の南北には怪しい個所があり、
ここのような右岸だが往時相応の大寺院だったのではと思える箇所や、
ここを見に行くべきだったかもしれない
しかし着いた当日で酷暑で今回はあまり田んぼの中歩くのは控えようと思い次回以降の宿題である。

Vat Srei Tuol特段遺跡地図にも載っていないが通り道で寄ってみたが何もなかった。その南南東のTuol二つのほうが見るべきものがあるかもしれない。


Kompong Cham 州
Vihear Thom
6.Vat Andong Svay 北の丘 2月からの再訪。
丘に多数あった石積みはただの売り物用砂岩を積んだものだった。まあそうそう考古学的な発見が今更あるもんでもない。が、村人からの聞き取り調査で、丘の頂上の小屋はここ数年、よくわからないカルト信仰していた人の祈祷所だったらしいがその人もめっきり来なくなって放置されているとのこと。
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その土台や敷地のラテライトの石組、あまり遺跡て感じではないものの、それは村人も知らない昔からあったとのこと。ただここが所在不明の遺跡Vihear Thomというには地形も、向きも違うようだ。

7.Neak Ta On Mung 不明で寺の近辺の人も知らないからしょうがない。寺の壁の内側の岩だと店のおばちゃんはいうけどここらへん、ラテライトも砂岩もごろごろした土地であり、あてにならない。
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コレジャナイ

CISARKデータは消えてしまっている。しかしあとで見ると寺の南側が怪しい。また行く機会はあるかもしれない。

8.おまけでBoeng Thom 運転手氏がポルポト時代を過ごし漁業に従事していたこの地。
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4月28日
Kratie州
1.Vat Chambak 3608
CISARK見れて分かった。7㎞北の遺跡Stoeng Thom(川あるのか?)からリンガを持ってきてこの寺に保管しているということらしく、3.の山のお坊さんが教えてくれたのはこのStoeng Thomに遺跡の基部が残っているということだったようだ。ひっそりして人の気配がない、村の中の寺だったので話聞けなかったが、また行かなければならなくなった。
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八角形しているがただの僧坊の柱の基礎というだけかもしれない。

2.Tuol Chedei 碑文Ka.84。大体予測した通りの場所。グーグルマップで示しているのは東の端の墓。
7世紀から8世紀のレンガ塔の基部が2?と西の丸い大穴。日誌にも思わず上げたが墓の縁石になっていた貴重な装飾つきの石材。クラチェに次回行ったとき文化局に知らせようと思う。
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3.Tuol Ta Vong
遺跡地図はTuol Ta Ongとあり、若干1.とは位置取りが違う。遺跡地図このあたりはややずれがあるようだがどうなのか?ちなみに何もないこの集落最大の墓地。山上まで砂岩がごろごろしていて竹が生えていて歩きにくい。ときどき自然石で区割りしてるところがあったが遺跡じゃなく墓の分譲でしかないのか?
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4.Phnom Soporkalay CISARK1703(データ消滅) IK140.03 遺跡地図ではメコン河畔に載っているがそんな地形はない。
山上の寺院だがメコン川方面より、反対側の原野の広がる光景のほうが開けていて景色が良い。
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グーグルマップでも口コミに歴史サイトとはあるが、特段遺物は見いだせなかった。ここの僧坊で遺跡についてお坊さんに尋ねると、山の中に土台だけが残っているという、さっき行ったVat Chambakから行くという。探すことに。しかし、今になって考えたらCISARKのかろうじて残っているデータから、Vat Chambakの北7㎞のStoeng Thomからリンガ、の一部を持ってきて収めたということでStoeng Thomのことを教えてくれていたようだ。
そのStoeng Thomがどのあたりかわからないが寺からジャスト7㎞北の、これか?

しかしそのときはCISARK参照もできず、無駄に現代のStupaを村人と探して見つけただけだった。
特段歴史的意味があるか不明だが
イメージ 13
ここ
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ここ こっちは仏暦2507年と書かれているので西暦1964年建立のストゥーパである。池trapeangもあるのでなんらかの遺跡だったかもしれない。
がこのあたりで砂嵐がひどくなり目もあけてられなくなった。

結局1か所以外は遺跡は見いだせなかったが、Stoeng Thomについてはまた探してみたいと思う。

Kompong Cham州
Hanchey group

5.Kok Preah Theat まあまあ有名と思う。ラテライトの寺院でプレアンコールなのだが…。グーグルマップの口コミがひどいので書いておこうと思う。
ストリートビューで見れるので寺院自体は置いといて。
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 修復によって不要になった、石材同士をつなぐ連結材が余って集めて放置されていた。これまでラテライトで作るとはこだわりを感じる。
砂岩で作ってるところもあるが。

6.Prasat Hanchey IK.83
北の砂岩のアシュラムは何度見ても美しい。
南のレンガ塔はKompong Preah様式か。グーグルマップでKok Lveaになっているのは間違えにもほどがある。
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西壁面中央下部の装飾、ミニチュアのプラサート、日本なら国宝になってるであろうこのアシュラムは。

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レンガ塔の碑文K.81の北扉の冒頭。レンガ塔自体はコンポンプレア様式に見えるが碑文は6-7世紀。


7.Prasat Kok Lvea 碑文撮りに再訪したが。夕方で雨あがりで暗くて今一つだった。
ここも7世紀の遺跡を10世紀に再建、その際碑文のあった石扉を削って加工して入口の天井に配置するという迷采配。あるいは故意にかもしれないが。
イメージ 18

写りが悪くて絶望的だが、カットされた碑文下部。Kナンバーは未確認。なかったと思う。

ラージェンドラヴァルマン2世王をレンガ王と勝手に呼んでいるがこの旅でこの先どんどん本領発揮していく。

令和元年五月五日

いつもアンコール遺跡群の入場チケットブースの近くでドリアンを買うので行くが最初に適当に寄った店のねえちゃんは見覚えがあるがドリアンがなんかしなびて小さい。
隣の車の露店は青いが。
しかし聞いてびっくりしたことにこのドリアンコーケーの町Sarayangで栽培し始めたものだという。
あんなところでドリアンが取れるとは驚きだがねえちゃんがスマホで農園の画像見せてくれる。みたところせこれがSarayang とは分からないが。ねえちゃんはバッタンボンから来てるらしいがわざわざこーけーまで仕入れに行くのか?
昔は熱帯でもかなり南じゃないとドリアン栽培なんてできなかったはずだが温暖化の影響だろう。

まあ小さめだが買って食べてみることにしたら切ったら実が出てくる出てくる。5房もあって驚いた。どうでもいいが去年は旦那と売ってたが今日は妹くらいの子と二人で売ってるのでどうしたと聞くと離婚したとゲラゲラ笑っていう。こういう遠慮ない話もあっけらかんと聞く方も答える方もやってるのである。

カンボジア最近離婚率も上がってるらしい。浮気と飲酒が原因のようだ。
まあ頑張ってねと別れる。
ちょうどいい熟れ頃だった。
が味はやはり今はコンポンチャム産が一番か?

チケットブースでサクッとチケット買ってたら案内の子らがはっやいーとか言ってる。
まあ何度か来てるからということだけである。
1.施療院
中国が修復したタケオの西の施療院に行く。ここで神像が出たと言ってた気がしたが発掘の跡など分からなかった。
2.西トップ寺院
人がいないところを回る結局はチケット要らなかった。
南に向いてる。東経蔵はラテライトで梁が木屋根が瓦だったらしくかなり瓦が落ちている。
混じって分厚い彩文陶器片もある。
3.Ta Neiここも昔は車も入れずひっそりしていたがちらほら個人客がやってくる。
ガイド氏に破風のブッダストーリーを解説しつつ舟に乗ったブッダ昔見逃していたことに気づく。
4.Srah Srang だいぶ干上がっててメボンの石材が観れる。
メボンがどんな構造だったのかはわからないがベンメリアみたいな感じか?
露台も環濠を持った遺跡のようになっているが水抜き穴があってどうしていたのか今じゃわからない。
これで今回はしまいである。アンコールワットの前の地元民の食堂で帰るのでカエル、はベタだが、やナマズの焼き物など食べて空港に。
また帰国してヤフーブログ最後の今回のまとめを書きます。

令和元年五月四日

シェムリアプ州
車も直ったので気を取り直して出発である。
旅行会社のS氏が詫びに来ててかえって恐縮である。昨日の一件はカンボジアでスケジュール通りいかないことなんて当たり前なのでそれより報連相がないとS氏たちも知らない間に対応できないままアクシデントに遭うリスクを恐れている旨つたえ、
ついでに見てくれだけでサービス、設備があかん宿のこともディスっておいたがカンボジアに限らず宿のトラブルは遠慮なく言った方がいいかもしれない。

バルスピアンの南東クーレン山の南西にその山塊が割れてできたような山Phnom Hap へ。
麓の寺への看板があり道は分かりやすい。

1.北から東側の山道を行くが途中台座や石材を置いた祠があり慌てて止まってもらう。
ここは山の北東(訂正)の麓で目指す遺跡は南西(訂正)の山頂である。距離があり間にお寺がある。わざわざこんな叢に山頂から運んで建てておく意味も労力もない。盗掘して運んだ途中にしてもただの石材もあるのはおかしい。
コンクリートの土台に仏暦仏暦2559年 西暦2016年に造ったとのみ書いてある。
人が全くいないので事情がわからないがこれは
近くの未登録の遺跡から来た可能性がある。
がブッシュがひどく棘だらけであまり調べられなかった。
麓のVat Hap 別名もあるが忘れたーに着く。
登山口を聞くと大きな猿が一頭いて悠々としている。野生とのことだがはぐれザルか?
階段を登ってはあはあ言って中腹の仏堂や民間薬の木を集めている広場に出る。
そこからは山道で急登でありすぐ休憩する。
10分ほど座り込んで再開する。
しばらく行くと奇岩が連なりそれを見ながら山を東から南下して巻いていく。
奇景に圧倒される。岩の絶壁の下の洞穴に祠があり柱状の石材ーこれは持ってきたのだろうーがある。住み込みの修行場があるが誰もいない。少し下ると岩からの湧き水を集める大きめの水汲み場があったが雨季に入っても全く雨がなく干上がっていた。ここから山頂へは西へ直線距離なら100m強だが岩をよじ登らないといけないようだ。
数ヶ月前グーグルマップに上げてるカンボジアの人は奥さんと登ってて中年のロッククライミングしてなさそうなおばちゃんでも登って降りてるから行けなくはないと思いたい。
でその崖に着くとなんとありがたいことにコンクリで鉄の手すり付きの階段が出来ている。
これで転落事故のリスクは減った。それにしても短い期間によく造ったものである。階段を登って終わりではないが木々が倒れている山道を登ると山頂のレンガ塔が見えて一安心である。
2.Prasat Phnom Hap
上は壊れて壁だけだが中にヨニと、新しいリンガが東向きに置かれている。あまり装飾はなくシンプルな構造であるが、こんな岩山の山上にまで寺院を建てる苦労は大変なものだったろう。時代はクーレン山のそれらと同じかどうか?
ここも小屋と墓があるが水もなく無人である。遺跡の北に山道があるので言ってみると西に展望が開けた岩があり絶景であるが一番先の岩まで行く勇気はなく二番目の岩に飛び乗る。眺めがいいがなんかユラっとした気がして慌てて戻る。
浮き岩てことはないだろうが年取って平衡感覚がおかしくなって、それと地震以降ちょっとのことで揺れてる錯覚が続くので無理は禁物である。
山頂も砂岩だが石切場はなさそうだった。
下って道だ別れて間違えたかと思ってたら階段に出て下りは、登る際には息切らして下向いてて気づかなかった大岩の風景に感嘆させられる。
わたくしよりガイド氏が喜んでいる。
なんとか中腹の仏堂と薬の木を集めているところに行きガイド氏が安い安いと大量に煎じて飲む薬木のかけらを買いまくる。近所にも配るとのことである。
ふもとの寺に着いたら昼の弁当準備してきたという。バンテアイスレイあたりで食べるかと思ってたがありがたい。
運転手氏がドラえもんの柄のハンモックを吊ってくれてた。風が快い。もうのんびりするかという誘惑に駆られるが出発である。
本当にいいところだったがお寺の人に未知の遺跡について聞くのを忘れた。
3. Prasat To
昔教えてもらって行ったかもしれないが再訪?
東バライの取水口に来たのでここも寄ってるような気がする。
ラテライトのバイヨン時代の寺院で変則的である。
そのまま東進してPhnom Bok の周りの遺跡へ。
4.Prasat Trapeang Chambak 位置を同定できておらず至近の民家のおばちゃんに遺跡に行くというとああそこと山に向かって指差す。
いやプノンボックじゃないんだがと気にもとめず名前の通り池トラペアンの方をさまう。
がどこにもない。藪の中で陶片土器片を見つけもういいかと引き上げて路上に出たらガイド氏があれと指差す。
道路の反対側にレンガ塔が見えた。
最初おばちゃんはこれを指差して教えてくれてたのだった。
レンガ塔は崩壊してレンガも土塊になり埋もれて、入り口の石枠が残り盗掘されているがちょうど一年前に書いたGajendra Moksha がモチーフのレアなリンテルがほぼ完形で落ちていた。

5.Vat Chey-?
名前は忘れたが遺跡ということで。
壊れ切ったレンガ塔の残欠と星辰を彫った石版。北斗7星というか6星と北極星中心のようである。

6.タニ陶磁博物館 係の人がとっとと帰る寸前に到着して開けてもらう。
看板の壺はどう見てもこのタニのものではなくSo Sai 窯のものであるがまとめて展示したかったのだろう。ソーサイもそんなに遠くないので行ってみようと思い移動する。tちなみにチケットの通しナンバーが55だったので客が来るのか聞くと一月に5、6人とのことだった。
Phum Snay にしろ日本は作った後のフォローはしてるのか?発掘調査終わって進展ないのはどうなのか?とも思うが事情もあるのだろう。

7..Prasat Banteay Kchong だが次に寄ったこの遺跡が素晴らしすぎた。
前部 前衛 4列の経蔵と連子窓を持った?回廊の原型となる更衣所、真ん中の隔壁とレンガの楼門。さらに南北の経蔵。前室を持つ主祠堂と南北祠堂。
ここまでplanがはっきりしているのは珍しい。
Banteay Preau に似ていて、あるいはもしかするとPrasat Chamresh にも類似しているのかもしれない。
写真撮ってたら子供が二人やってきて弟の方がカメラに割り込んでくる。しょうがないのでとって上げてたら母親が来てAPSARA の管理人してるとのことでこんな辺鄙なところでもいるのはいいことである。こっちは一月に一人来る程度とのことだった。外周壁北東で陶片少々。

写真撮ってたら夕暮れになりソーサイ窯はどうせ破壊されてるらしいのでまた今度にする。

帰りにチャウスレイヴィボールの横通ると道が広く舗装されていてあっという間に通り過ぎて隔世の感がると何度でも思うが。この分だとバンテアイアンピルも楽勝であろうか。

令和元年五月三日

今回はマルチビザを取ってみたので出入国どんな塩梅か実験してみたくなります。
タイに行ってみることに。
だがその前にトラブル続きである。
前日に朝7時に出発したいというと車の調子が悪いので整備工場が開く7時半にしてくれという。
普通ならこの時点で旅行会社に連絡して車手配し直すのが筋であるがこちらも運転手氏の車であちこち行ってもらっていて情けをかけたのが間違いだった。
朝聞くと車が故障してるという。動いちゃいるがアラートランプが点きっぱなしである。
整備工場に着くと修理が必要という。運転手氏が仲間を代わりに呼ぶというのは良いがガイド氏も旅行会社に連絡しようとしない。
報連相は基本である。電話してもらいひとしきり経緯を説明してこれはわたくしに限った問題じゃなく今後のため注意してもらう。ガイド氏も恐縮してたが問題を自分達だけで解決しようとするのはいいが会社で受けた仕事なので会社に報告するようにしてくれるよう頼む。
代わりの車が来るまで1時間半ほどのロスである。代わりの運転手氏はかなり飛ばしてくれいい感じで進む。途中からLvea の近くでここが三月の事件現場という。
全然シェムリアプ近郊で往来も多いのになんでこんなところであんな凶行に及んだのか思慮の浅さに呆れる。死刑廃止の国だが厳罰に処されて然るべきである。

調子よく走っていたが今度はパンクである。
運転手氏2のレンチがしょぼく飴のように曲がる。横の店のあんちゃんに頼んで近くの修理工場に十字レンチを借りに行ったが外しても直らないので結局タイヤをまたあんちゃんと運んでいった。しょうがないので店でカラバオドリンクでも飲んでやっと修理が終わり50分ロス。
何か抗いがたい運命がわたくしのタイ行きを拒んでいるのか?
本来なら10時過ぎには着いていたであろう国境のカオスの街ポイペトに昼前に着く。これはすなわち朝シェムリアプを出た国際バスの集団と重なるということである。胡散臭い輩がビザ持ってますかなど声かけてくるが全て無視するべきである。
それはいいがカンボジアの出国はまだマシだったがタイの入国は大行列である。ちなみに悪名高いカンボジアの通関も指紋照合で無事終わったらサムアップしたりと普通でフレンドリーだった。タイの通関はエアコンも効いてて寒いくらいであるが、
かましい杖をついたばあさんが列を割り込み柵を擦り抜けていく。後ろのクメール人の女の子がクロマーを巻いてたわたくしをクメール人と思ったのかわたくしにくっついて税関指差してなんか言って笑うがさっぱりである。1時間近く並んでやっとタイに入国できた。昼過ぎて時間が大幅に押している。
銀行でいくらか下ろしてガイド氏に飯食う時間はないのでセブン(11)でおにぎりとパンを買って車を探すがいない。のでトゥクトゥクのおじさんに頼む。
Sdok Kak Thom
Vat Aranyakaram
Vat Khao Noi で真ん中以外は知っていた。
値段交渉する時間ももったいないので言い値で頼む。言い値で頼むと多少の無理が通じることもある。
トゥクトゥクに乗ってカンボジア人のガイド氏にコンビニおにぎりの開け方を指南しつつ食べるのも乙なもんである。
途中遺跡の丘やNing kuと言った寄って見たかった遺跡をすっ飛ばし50分ほどで公園と化した
1.. Prasat Sdok Kak Thom に着く。
まあなかなか機会もなく来れなかったのでよかった。
が、なんかタイの修復は違うそうじゃないというところが拭えない。装飾も単調で途中でなんか飽きてきた。
とガイド氏が一人はカンボジアの高校の制服を着た女の子二人組に話しかけているがカンボジアでもインスタが流行ってるのか自撮りに忙しく増しておっさんに話しかけられてうざそうである。がやっと聞き出しとところによるとなんとカンボジアの国境の村Ou Ba Choanから越境してバイクで来たという。学生は学生証で痛感できるという。カンボジア人は身分証明証を持っているのでそれで越境してこれるというのだ。
実際越境はポイぺトなんかより他のボーダーの方が楽であるが、越した先の交通手段の確保が困難であるのがネックだがカンボジアの人は気軽にこのカンボジアの歴史に重要な碑文が出土した遺跡に来れるということである。
翻ってカンボジアはまだPreah Vihear をタイに開放していない。

ぐるぐる回ってる間に主祠堂にタイ人の家族が上って行った。待ってたがなかなか降りてこないのでいくと中にいた若い女性がジャパン?と声かけてくる。
イープンと答えるとえらく親しげに話してくる。カメラマンかと聞かれるので違うというとホリデー?と聞かれる。今日本は10連休というと、ああニューエンペラー!という。
タイのこんな田舎にいる人でも新帝御即位を嘉してくれるものである。
話してたらお父さんと思しき人がわたくしと記念撮影するという。女性が日本語でハイチーズと言ってお父さんとわたくしをお父さんのスマホで撮る。どこの誰ともわからない日本のおっさん撮ってもなんてことないだろうが喜んでくれるなら何よりである。
というかタイでも日本人てだけでこんなに親しく接してくれるのがありがたい。日本語でありがとうさようならというのでタイ語で挨拶お返ししといた。バライを見て
トゥクトゥクに戻って頼んでおいた
2.Vat Aranyakaramに寄ってもらう。
ここはタイのクメール遺跡を網羅されているKK様ブログを参考にさせていただいてたのでわかった。まあ通り道にある。
遺跡の痕跡はないが二つに割れたアンコール期のリンテルなど石材が少々残る程度である。

それより今回のむしろメインは
3.Prasat Khao Noiである。
西にも遺跡二つあるが時間が厳しい。
Vat Khao Noiについて階段を上るが息切れ気味で情けない。双耳峰で二つピークがあり勘で西の方に登ったらそこだった。
驚くべきことにタイまで来てまたサンボープレイクック様式を10世紀ラージェンドラヴァルマン2世のリコンストラクションである。
SPK様式のリンテルが北祠堂に4点。
予備知識なくレンガ塔とのみ知ってたが不思議なもんである。が雨が降り出し、すぐに
雷雨が激しい。雷光から雷鳴までの時間数えながらびしょ濡れで撮影してたがとうとうピカっと光ってどドンとなるまで1秒弱で危ない。慌てて逃げ出す。木の下に移動しつつ階段を降り最前の分岐の広場の祠に逃げ込む。
高僧の像を祀った祠に祈りを捧げると自分でも不思議なことに雷がピタッと止まった。御礼を言って山を降りた。
雨が激しいがアランヤプラテート に近づくにつれ雨は降っておらず局所豪雨はタイも同じようだ。国境の駐車場までなんだかんだきっちり送ってくれた運転手に礼を言ってカンボジアに戻る。
怪しげな偽オフィスがあり看板も信用できないが脇芽も触れずパスポートコントロールに向かい行きと違って閑散としてカンボジア人のガイド氏はすぐ抜け、わたくしは過去のビザが多くジロジロ見られて時間かかるがそこまでではなく無事カンボジアに戻りホッとする。カジノホテルの高層ビルが怪しげなネオンを煌めかせるころやっとシェムリアプに向けて戻る。
3時間弱で戻ってこれて運転手氏に感謝する。

アランヤプラテート でレンタカー乗り捨てられるならまたバンコクから車で遺跡見ながらやってきてもいいかもしれない。今はグーグルマップで迷うこともないしいいかもしれない。